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破滅型犯罪を「格差と貧困のせい」と評しなくなったのはナゼ?

京都アニメーション放火殺人事件(2019年)、小田急線刺傷事件(2021年)、そして昨年末の大阪市北新地ビル火災事件、今月8日に起きた東京代々木の焼肉店たてこもり事件。常軌を逸した精神状態と思われる者が引き起こした事件が相次ぎます。大変痛ましい事件です。ここでは「破滅型犯罪」と呼ぶことにします。
あくまで報道レベルでの判断ですが、いずれも加害者は経済状況が困窮していたようです。それで一連のマスコミ報道、あるいは特定ジャーナリスト、活動家、社会運動家らの言説をウォッチしていて若干の違和感を持ちました。
それは事件の背景を
「格差と貧困のせい」「社会のせい」
と論評しなくなったことです。

加害者を「社会的弱者」と定義付けて、例えば「小泉竹中路線で拡大した格差はアベノミクスでさらに貧困化を進め脅迫犯罪に走らせた」といった風のお説です。

先の焼肉店たてこもり事件は死傷者を出しません。しかし同店の損失は大きいでしょう。一部活動家は「人を傷付けなくんて本当によかった」と評しています。こうした表現も居丈高ではありますが、しかし過去の言説にあった「格差と貧困のせい」とは趣きが異なります。

格差・貧困論者の嘘くささ

破滅型犯罪に際して「社会と貧困のせい」と評する向きは2008年の秋葉原通り魔事件が顕著でした。新聞やテレビなどで定番の左派活動家やジャーナリストが登場して「格差のせい」「貧困のせい」と訴えたものです。一つには当時「格差貧困論」「派遣切り批判」がブームだったことにあります。特に秋葉原通り魔事件の場合、加害者の加藤智大死刑囚が自動車メーカーの派遣労働者だったこともあり「派遣労働批判」「社会的な孤立」「貧困」とつなげて論評していました。あるいは「ワカモノ論」も同時期にブームでした。特に就職氷河期に直面した世代の一部から「ワカモノ」がマスコミの舞台に躍り出ました。

しかしワカモノ論の旗振り役も今や立派なオジサン・オバサン。「ボクらワカモノが」という切り札はもう響きません(この手の人たちってボクらって一人称が好きじゃない?)。金髪というだけでワカモノを演じるのはもうキツイです。

変わって現在、マスコミに好まれる「ワカモノ」は活動家というよりも「アクティビスト」といった存在で、いわゆる政治活動臭いを排した「意識高い系」の雰囲気です。こうしたアクティビスト様が語る「貧困」「格差」は説得力がありません。むしろ「環境」「ジェンダー」こういった現象にスライドしています。

加藤智大死刑囚の作品。なぜ艦これを知っているかといえば支援者が差し入れするから。

私は当時、「格差貧困論」に疑問を持っていました。確かに派遣労働で働き孤独で貧困にあえぐ人は世の中、少なくないでしょう。しかしこうした層がみな犯罪に走るわけではない。困窮や経済状況を放置しろという訳ではなく、先の「お説」の方々は言論的ブームに便乗しているに過ぎないと考えていました。

同時期に「ネトウヨ論」というものが勃興していました。これが面白い! 貧困問題の集会などでは困窮者に同情的な意見と同時に「ネトウヨは貧乏だから右翼になる」といった主張があってアジテーターはウケをいただいていました。生活困窮者に同情を寄せる一方で貧乏人は右翼というレッテル貼りは果たして社会的弱者や困窮者について「寄り添っている」のでしょうか。こういう理由で私は当時、格差・貧困論者は欺瞞、偽善だと考えました。

単純に飽きたから!?

ところが一連の破滅型犯罪では上記のような「格差・貧困」といった言説はほとんど聞こえませんでした。
小田急事件の場合は女性がターゲットになったため「フェミサイド」といった抗議活動が起こったのはまさに時代の象徴。背景としてはいわゆる「ツイフェミ」(Twitter上の先鋭化したフェミニスト)の増殖があるでしょう。しかし彼女たちのアジテーションを聞いても「女性差別」と表現しても「貧困」「格差」といった言説はありませんでした。

なぜ左派の論者やマスコミから「格差貧困論」は消えたのでしょうか。いくつか理由を考えてみたのですが、

●単純に「飽きた」

●キャッチ―なフレーズではなくなった

●アベノミクスの一定量の評価と野党の経済政策のノープランぶり

といったところでしょうか。あるいはコロナ禍下で単純に「格差貧困」を持ち出せなくなったかもしれませんが。ともかく凶悪犯罪が起きて朝日新聞や毎日新聞がとりあえず雨宮処凛あたりのレギュラー陣を出して「格差と貧困」を語らせるという報道スタイルは見られません。

先にあげたうち格差貧困論が「キャッチ―なフレーズではなくなった」というのが主要因ではないかとも推察します。なぜならマスコミも活動家もその時の流行りのフレーズを連呼するだけだから。

「弱者に寄り添う」と言いながらその実、寄り添うのは自身の主張に共鳴した「弱者」。そこに隣り合うのは、流行りのフレーズに飛びつくマスコミと活動家。要するに思想的貴族な人々です。

貴族たちが破滅型犯罪の加害者について「社会的弱者」というならばそれもご随意に。しかし断言しましょう。

本当に社会的弱者を置いてきぼりにしているのは先の思想的貴族の面々です!


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