Colaboバスカフェ抗議活動に潜む「行政から勝ち取った」同和メンタル
バスカフェに執着するのはなぜか?
東京都若年被害女性等支援事業の委託団体、Colaboが新宿で開催するバスカフェ。街を彷徨う若年女性の救済を目的にしています。
ところがトラブルが相次ぎ路上の使用許可が下りずに団体、支援者が抗議活動をしています。そもそもColaboは歌舞伎町に事務所があります。バスカフェは「女の子の居場所」と団体側は主張しますが、なぜバスカフェに固執するのか不思議です。
支援者らは共産党員など左派。昨今の左派、あるいはマスコミも同様、「反体制」といいつつこうした面々は異常に「公依存」を強めています。
あるいは共産党と長らく対立してきた部落解放同盟も行政に対する要求は激しい。また在日コリアン団体も同様の傾向があります。
「行政から勝ち取ったもの」
彼らの活動の上位概念として「勝ち取った」というものがあります。行政との交渉の末に得た権利に充足感を得るものです。すなわち勝ち取ったは活動家のアイデンティティ。
一般人の感覚では理解できないかもしれません。ごく普通の生活をしていると役所と交渉なんてそうそうないと思います。
バスカフェが隣保館に見える
「勝ち取った現象」の一つとして公共施設の利用があります。例えば市役所の一室を団体が使用する、あるいは隣保館=同和事業の窓口施設など。とりわけ隣保館が廃止ともなれば激しい抗議が起きることもあります。
バスカフェ中止に抗議する面々を見て直感的に隣保館に映ったのです。
バスカフェも東京都から許可を得て実施する取り組み。これも行政から勝ち取った権利といえます。
女の子たちの居場所と訴えますが、月1~2回程度の開催が果たして「居場所」なのか疑問。それに近くに事務所があるわけだからそこを解放したらいいでしょうに。むしろその方が安全です。
目を血走らせた活動家が取り囲むバスにどこの「女の子」が好んで利用するでしょうか。
だからもうバスカフェはそれ自体が「目的化」しており、ひいては行政から勝ち取った成果なのです。勝ち取ったものを失うのは左翼活動家のアイデンティティに関わります。
この辺りが私が東京都若年被害女性等支援事業を「ネオ同和」と呼ぶ理由です。
本来、こうした社会活動はひたむきな姿に支援の輪が広まるものです。しかし同事業に関わる団体関係者、支援者の態度は社会活動というより「要求闘争」と化していませんか。
若い世代にまで同和団体の「勝ち取った」が広まっていることに驚いています。