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子供の判断力って危ういよねって話

急に何かと思ったかもしれません。

しかし私にとっては結構よく考えている事で、一歩間違ったら死んでたなっていう過去の経験を思い出しては、子供なりの判断力には危うさがあるという思いに更けるわけです。

子供というのは、ハイハイするようになり、掴まり立ちするようになり、歩くようになり、その場でジャンプできるようになり、少し段になったところから飛び降りれるようになっていきます。

そこには必ずそれを見守っている人がいて、少しよろけても手をさしのべ支えてくれます。階段や段差のあるところは受け身をうまくとれるようになるまでは常に誰かが見守り、足取りがしっかりしても突発的な行動に出かねないからと、見てないようでしっかり見守られています。

倒れたり落ちそうになったりぶつかりそうになっても、誰かが守ってくれる。そんな安心感の中で育っていきます。

今では子育てを経験し、私もすっかり見守る側になりました。そして見守るには限界があることを実感しています。

全体重を前触れもなく投げ出して来たり、絶対に届かないところに足をかけようとしたり。子供って、遊びの延長、今までの経験の延長で急にすごいことをします。

あのときは受け止めれたけど...あのときは遊びの中にある動きとしてこちらも構えてたから良かったけど...と、他のことをしていたり、荷物を持っているときなどはもちろん、視界の端や一瞬では手の届かない距離でそれをされると、見てはいても守れないんです。

それで、私も子供時代にやらかしそうになったことがありまして、あの一瞬を躊躇していなかったらと思うとゾッとすることがあります。

中学生の時、学校の野外授業の一貫でスキー合宿がありました。幼児の話かと思いましたか?中学生の頃のことです。侮れません。

はじめてのスキーで、なだらかな場所で練習したあと、リフトにのってスキー指導の先生とクラス全員で少し山の上に行きました。

カーブが難しいけれど、真っ直ぐならなんとかゆっくり滑れるくらいにはなって、長く滑ってみればコツをつかめそうな、そんな時だったと思います。リフトを降りてみんな集まり、先生からコースの説明を聞きました。

それはまっすぐ行って最初に左、次に右、みたいな説明で、どこから滑るかは言っていませんでした。スキー経験者なら暗黙の了解で分かるであろう、滑り始める場所。その説明がありませんでした。

説明を聞きながら左横を見ると、ロープがかかっている場所がまばらで、ロープとロープの間が2メートルくらい空いているのを見つけました。先生はその空いてる場所からそう離れていないところに立っていたため、集まっている場所から考えても、滑る場所と思ってもおかしくない位置でした。

先生が、滑りに自信があったら先に行っても良いということを言っていました。

それを聞いた私は、ゆっくり行けば多少うまくいけなくても、先生がサポートしてくれるという安心感もあってか、先に行こうとその場に立ちました。そしてその先を覗き込んでみると、雪が舞い上がり、1メートル先も見えない急勾配でした。

あっ...誰か先に行ってからにしようかな、でも自分が一番スタート位置に近いしな、どうしようかな...

そう思っていたら、先生が言うのです。

「ではスタート位置に移動します」

ここじゃないのかと戸惑いながらついていくと、とてもなだらかで雪も舞い上がっていない場所に着きました。後から考えると、あの場所は本来のスタート位置とは全然違う方向に落ちる勾配で、整備もされていないただの雪山の一部でした。

あの先生の一言がある直前、まさに滑ろうとしていた私は、本当に一瞬躊躇していて良かったと心底思いました。

経験の無さからくる判断力の危うさがまさに出たときでした。

子供の頃は、そんな失敗してる話聞いたことないと思っていましたが、結果大丈夫だった人しか生き残っていないのだから当たり前なんですよね。

最近はよく、防犯意識も持てるようにと子供に対して言われていますが、大人の保護の中でいろいろな経験をつけさせるということは、子供にとって「自身を守るための判断力」をつける、必要な過程なのだと思います。

そして、ただその環境に置くだけでなく、その内容を共有しながら、考え方を教える事も重要だと思います。

見れば分かるでしょという考え方では、見れば分かる子供にしかわからないからです。

どこまで理解しているかよく注視して、人それぞれに合った教え方、フォローの仕方ができるようになれば、子供だけでなく大人も皆が住みやすい世の中になるのではと思います。


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