見出し画像

燃え尽きも、人生2回目。

わたしは、人生で「燃え尽きた」と思ったことが、2回ある。

1回目は、高校の時。

中学2年の後半に、4年かけて築いてきたものを、スッパリと辞めた。

それは、半分は自分の意思で、半分は母の無言の意向で。

自分では、あんなに楽しいと思っていたからやり続けていたことが、誰のためにやっているのかわからなくなったことが、要因。

母サイドからは、おそらく、この道を極めることが、本人のためになるのだろうか?という、母心。

正直、その母心は、わたしにとっては負担以外の何者でもなかったけれど、結局のところ、わたしは、その世界から離れることを選んだ。

それでも、わたしには受験が控えていたし、平気なフリをしていたら、担任は、「前より元気そう」なんて、思わぬ方向に勘違いしてくれたし、なんとなく、中学時代は、何事もなかったのように日々は過ぎ、わたしは高校へ進学した。

新生活。

気がつくと、いろいろ夢中になっているはずなのに、なにか空虚な自分が、そこにいた。

自分でも、何が起こっているかわからないままま、わたしは空虚な毎日を過ごした。

そう、これが、1つ目の燃え尽き。

抜け出したのは、大学で一人暮らしをしてから。ガラッと環境が変わることで、わたし自身、変わっていくことができたのだと思う。


2つ目の燃え尽きは、もっとずっと、大人になってからのことだった。

何がなんでも、受かりたい、受からねばならぬ試験を、わたしは控えていた。

がむしゃらに励む毎日。
勉強したことを、着実に、結果として出していかなければならなかった日々。

「嫌だ!」と、心の中で叫びつつ、「やらねばならないのは、『今』だ」と、ささやく心。

これこそ、アンバランス。

なのに、日常は非情にもやってきて、さまざまな理由から、励むことが難しい日々は続いていった。

そろそろ、なんとかしなければならない。

と心の中では、常に警笛を鳴らしているというのに、鉛のように重いわたしのこころが、邪魔をする。

そうして、自分を、偽って、本当にあるかすらわからない、わずかな希望を胸に、1日、1日、わたしは、どうやったら、不可能が可能になるかだけを考えて、勉学に励んだ。

(長年、抱えていた想い。形にするなら、今しかない。今しかないんだ。)

そんな想いばかりが、空回りしていた。

この頃、ある有名アスリートの言葉を、わたしは日々の自分への戒めにしていた。

「できるかできないかを、決めるのはキミだ」

この言葉をみるたびに、わたしは無言でうなづき、同時に自分の甘さを痛感した。そして、何度も何度も、この言葉を心に刻んだ。


そう。受かるためだけに。

分厚い過去問集を繰り返し、1回目、2回目、3回目...と、間違った時の感情まで過去問集に書き殴り、対応する問題のページを書き込みながら、学んだ内容も過去問集に書き込んで、

移動の最中は、苦手分野のチャンネルを何度も聞き流して、じわじわとワードに親しむ方略を取り、

ラストの1週間は、同じ試験を志す応援チャンネルの、合格のポイントや、試験当日までの心構えや注意点を書き出して、何度も確認し、

前日までに、過去問の間違いやすいポイントを書き出し、何度か唱え、

当日は、事前に調べて計画していた通りのメニューを食べ、

集中力を維持するために、試験の前と、昼休みに、愛用している栄養ドリンクを過剰摂取し、カフェインは、トイレ対策に錠剤で摂取という手段を取って。

それ以外にも、自分を整えるために、タッピングだの、自己暗示だのと、あらゆる方略をとった。

すべては、受かるためだけに。


そうして、発表の日。


わたしは、合格していた。

お世辞にも、「できた」なんて言えない程度の出来だったけれど、合格には変わりない。

(セーフ!!!!!)

安堵とともに、妙なテンションになった自分を自覚したからこそ、ごく身近なひとにしか、わたしは合格を伝えなかった。それでも、ついにやった!という気持ちで満たされたわたしは、合格の事実を噛みしめた。


その後、気がつくと。

わたしは、

(そこまでして合格したものが、いったいなんの価値があるのか?)

という思考パターンにハマり、辞めどきを考えるようになる。

(気力が湧かない)

そう思いながら、すでに大人だったわたしは、なんとなく気づいていたのだ。

(ああ、これはきっと、燃え尽きだ)

ボーッと、燃え尽き症候群についての本も読んだ。最後まで読めなかったけど、書いてることは自分によくあてはまっていて、

(やっぱりな)

と、ぼんやり思った。

受かるためだけに、普段の日常に加算する形で取り入れた様々なことが、あまりにも自身の限界を越え過ぎていたこと、その結果、気力を失ったことは、明らかだった。

でも。

なんだかもう、どうでもよくなりつつも、わたしは、やったことそのものには後悔はなかった。

(この試験に通っても通らなくても、こうなるべくして、なったんだろうな)

ぼんやりと、わたしはそんなことを考えていた。


そうして。

そうなってしまった自分すら、

(まぁ、いいや)

と思っているうちに、時は過ぎていき、

しばらくして、気がつくと、

(これは、わたしがしてもらったことへの恩返し。必要とされるうちは、続けていこう)

と、かつて思っていた想いに、戻っている自分がいた。

試験を受けても受けなくても、変わらぬ日常。

自分の名前の前に、ある職業名を書くか、書かないかだけの変化。

それでも、その肩書きがないことを長年コンプレックスに感じ、時々押し寄せる感情の波と戦ってきたのは、事実なわけで。

そうした、自分自身の問題と向き合って、出した結果が、今回の燃え尽きに繋がるのは明らかなのだった。


だから。

長年の想いに応じた結果の、燃え尽き。

そこに、後悔は、ない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?