ぷち小説〜さざ波〜

海の近くで育ったので、身体がじょうぶだと言われていた。

他人の身体感覚と自分の身体感覚を完全に比較する事は出来ない。だから、私にとっては自分の身体のじょうぶさが「普通」だった。

その日は、特に暑い日だった。
大手家電メーカーを辞めて、小さい出版社に潜り込んだ私は必死だった。
「結果を出さないと!」と焦っていた。
けれど、それは焦りだけでなく自分への期待でもあった。
大手家電メーカーにいれば、定年までそれなりに暮らせる。
理不尽な事は多くても安定した道を捨て、自分のこの手で、出版社に潜り込んだのだ。
安定を捨てた代わりに自由と「私にしか出来ない何か」を手に入れた。
それは、私にとってはじめて自分の意思で選んだ人生の選択だった。

電車が出発しようとしている。カメラマンが何かを怒鳴り、私は慌てて階段を降りて、電車に飛び込んだ。

飛び込んだ、はずだった。

〜〜〜

そこからの記憶は無い。気がつくと病院のベッドで白い天井を眺めていた。

薬の甘いような匂いがした。
年老いた母親が、研修医かと思うような若い医者と病室に入ってきた。

無機質な声で、医者が言う。
「リハビリすれば、足は少し引きずる程度まで回復するでしょう。」

娘の病状など関心もないくせに、母親はハンカチで目頭を押さえる演技をしている。

「…ちゃん、少し実家でゆっくりして…」
心にも無い事を母親が言うので、私は心の中で笑いながら、笑顔を見せた。
「だいじょうぶ。私はだいじょうぶだから、心配しないで」

身体はじょうぶなハズだった。
なぜ、こんな事にという思いはよぎるが、過ぎたことをアレコレ言っても始まらない。

背中を丸めた母親が、病室を出ていくのを笑顔で見送りながら、私は思う。

これからだ。

これから、想像もつかない苦しく悲しい事も、きっと起こる。

でも、これからだ。
泣いてなんかいられない。

握りしめた拳に、水滴が落ちた。

泣くのは今晩だけだ。
今晩だけは、泣くことを自分に許そうと思う。

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