承認欲求とは

「承認欲求」とは、最近よく言われる言葉で、もともとは心理学者のマズローが定義した「欲求五段階説」のうちのひとつだ。

一番下が「生理的欲求」とされていて、いわゆる人間の3大欲求と呼ばれる食欲、睡眠欲、性欲にあたるものだ。

その「生理的欲求」の上にあるのが「安全欲求」で、とりあえずは自分の身の上の安全を確保したいという欲求(現代の日本ではそれを意識して生活することは、ほとんどないだろうけど)。

詳しくはリンク先を参照して欲しい。

マズローの欲求5段階説を図付きで解説!
https://ferret-plus.com/5369


この「承認欲求」・・今や世間でよく使われる言葉になったが、厳密にはそれは「かまちょ」という現代用語と同義で、果たしてそれがマズローの定義するところと同じかというと、疑問だ。

自分の中にもこの「承認欲求」は内包する。
ロクに音楽理論も理解してないのに、曲らしきものを作ったり、YouTubeにそのMVをUPしたり。

しかし、たいていの場合は誰の目にも止まることなど、ほとんどなく動画の再生数も2桁に満たないのが現状だ。

「なんでやねん!」という憤りめいた思いも昔はあったが、今の歳になって、そんな思いはおごりだったのだな、と思うようにしてる。

自分に才能がないか、見るにも値しないものだから、見られないだけで、自分の至らなさがそこにはあるのだろう。

所詮、自分とはその程度の人間なのだ。


今年は本当に色んなことがあった。

今まで生きて来たうちで一番災難に巻き込まれたのが、今年だったんじゃないかと思うぐらい、色んなことがあった。

僕はもう生きる意味を見失い、死ぬにはうってつけの年だと思っていたが、年末を迎えた。

一応、表向きには「年内いっぱいは何もしない」と宣言し、その間 僕は気力が充実する時を待った。

当初は、今所有する資産で自営業を始めることを考えていた。

しかし今までの自分をふり返ると、他人に迷惑や不快な思いをさせてばかり。それに「これがやりたい!」というアイディアも今の今まで、何も思い浮かばなかった。

僕は先日、見も知らぬ人に「甘えるな!」と叱責された話を書いた。

実は今、障害者枠で働く方向で話を進めている。対人関係から来るストレスで、道にぶっ倒れるようなら、ストレスのない場所に行くしかない。しかし現実はそうはいかない。まさか入社前に「御社の人間関係はどんな感じですか?」なんて質問しても、まともな答えが返ってくるとは思えないし、そんなことは入社した後に分かることだと思っている。

それを考えると、自分は「一般枠」ではなく「障害者枠」で働く方がずっとリスクは回避出来るんじゃないか。そう思った。

僕が倒れる症状が出始めたのは、もう20年ほど前になる。総合病院で、たらい回しにされ、MRIなども撮ったが「異常は見られないので、あと考えられるのは心因的要因です」と告げられた。

ちょうどその時は母に同行してもらってて、診察の後に昼メシを一緒に食べた。

ふいに僕は涙が溢れて来た。

偏見があることも承知で書くが、「あー、俺はキチガイになったのだな」。そう思うと、目の前にいる母に申し訳なくて、涙が溢れた。

その後、症状は治まったのだが、10年ほど前に再発した。職場の人間関係が原因だった。

それ以来、自分は仕事したりしてなかったりの時期が交互に訪れて、自分でもよく分からない状態が続いた。

今年の1月、また仕事を辞めた。

理由は(僕にとっては)立派なパワハラに当たるのだが、相手が実父ということもあって訴訟には至ってない(一時期は真剣に考えたが)。

仕事を辞して、一年近くが経過した。
もうタイムリミットだ。

ここにも偏見が含まれてると思うが、自分が「障害者枠」という選択をし、福祉の世話になるというのは、20年前の昼メシを食べた時の気持ちに似ている。

もう人生も半ばを過ぎた。

まだやれてないことはたくさんあるはずだ。

くだらない話だけど、MV作ったり、noteにこうしたことを書くのも、レベルの低い「承認欲求」なのかも知れない。

人の人生とは千差万別だ。

「生きていれば、きっといいこともあるよ」なんてこと、今まで他人に口にしたことは幾度とあるが、今はその言葉を自分自身に向けて発することは出来ないし、そもそも未だ自分のことが信用ならんという気持ちもある。

そんな人生に意味があるのだろうか!?

冒頭にあげた「承認欲求」にしてもそうだ。世の中には「承認するに値する人」とそうでない人に分けられるのだろう。

自分は後者だと思いつつも、未だ悪あがきを続けている。

こんな自分、(物理的な意味ではなく)死んでしまえばいいと思う。

他人に迷惑をかけ続け、自分も不快な思いを抱いて生きてるようなら、もはや自分は自分で無くした方が生きやすいのだろう。

「沈黙は金なり」とはよく言ったもので、何も発言しないのはリスクが皆無なのと等しい。

そう思うと、自分の持つ「承認欲求」や「プライド」は邪魔なもので、今後は違う生き方を求めていくのがベターなのかなと思ったりする。

結論はない。

ただ自分の置かれた状況を「承認欲求」に絡めて説明したかっただけで。

果たして・・こうした説明も不要だったかな、という思いもありながら、「更新」ボタンを俺は押すのだろう。

   


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