太宰治に触れてみた

今日はエイプリルフール。

私は一日、家にいた。


正確には午前に皮膚科いって、市役所いって、ついでにコンビニで一日の食料を調達したので、家から一歩も外に出てないというわけではない。

エイプリルフールなので。


今の作業所に通うようになって、約一年が過ぎた。

最初は自分が障がい者という立場である現実が受け入れられず苦しみもがいていたが、いつまでもがいてもその事実は変わらないので受け入れる努力をするようにした。

同じ立場である利用者のひとに対して感情を荒げることはなくなったが、職員・指導員という立場のひとに対してはどうしても我慢ならない時があり、感情を面に出すことを完全になくすことは出来なかった。


ちょうど二週間前のこと。

私はどうしても相性の悪い指導員と同じ持ち場になり、もう同じ場所にいることさえも我慢ならなくなり憎まれ口を小声でこぼしていた。

それを聞いた他の指導員の方が、自分のことを言われていると勘違いをしたのだろう。別室へ行き、話をすることになった。

そこから先のことは細かに覚えてはいない。


ただ、昔に自分のなかで未曾有の土下座ブームというのが来た時期があり、それというのは他者に責任を押し付けられなくなった末に出た、自分にとっては自傷行為に似た行為で、それがその指導員の前で出てしまった。

これはイカンと思った。

自分は金のために働いてるという意味合いが薄い。作業所でもらえる賃金は月にして10万足らずと、けして多い金額ではない。それでもそれを支えとして生活をする人もいるのだから、そういう意味で自分は恵まれてるのだが、自分はそれほど金に困っているわけでないので、金というより自分のために働いてるという意味合いが強い。

それなのに前と同じ自傷に相当する行為が出た、ということは原因の在処はべつとして、兎に角自分にとってそれを続けることはいいことではない、ということは自分にとっては明確な事実であった。

そこから自分の意思で仕事を休み、今日で二週間が経過した。

他の作業所を選んだ方がよいのか、一般企業の障がい枠で働くのがよいのか、自ら事業を起こすのがよいのか・・選択肢は複数あるが、ひとまず自分の今の状態を省みて、他の作業所で世話になるのが現実的であろうと、福祉の法人で働く仲介人に連絡を取り、次への道を模索中なのが今だ。

とは言うものの、四六時中家の中にいても暇である。

今まで以上に時間が出来たので、暇を潰すのに精進した。

そんななか、あるYouTubeの動画が面白かった。

【太宰 治】生誕110年・町田 康と 読む ・苦しみから 生まれる 文学 NHK 文化講演会
https://youtu.be/2SS6mGwUvzg
https://youtu.be/APRBNOkEXpg
https://youtu.be/56xSYXy7wpY
https://youtu.be/zl3AlTD-OAE

町田康は彼の文壇デビューの頃から愛読している、僕にとっては親しみ深い人物で、だからこそ太宰文学の一冊とて読み終えたことのない自分のような文学音痴でも飽きることなく全編聞き終えることが出来た。

自分の解釈では太宰治というひとは、今の言葉でいう厨二病で、だが単なる厨二では今も読み継がれるような文学作品になりうるわけもなく、そこには芸があるからこそなのであるが。

町田康の解釈では、太宰治とは以下のプロセスを繰り返し、自殺に至ったとされる。

1. 自己の切り下げ
2. キリストとの同化
3. 逆ギレ
4. 自己の破壊=自殺

動画の講義を聞くと、そのプロセスがとても丁寧に解説されているのだが、とても合点がいくものだった。

太宰治とは苦しみ抜いた末に自死にいたった訳だが、その中には非常に偏った屁理屈があり、その屁理屈は自分に対して向けられたもので、そこまではある種理屈が通っているのだが、そこで急に「逆ギレ」してしまう。

そこが非常に人間らしく、人間らしいであるが故に愛おしく。それはユーモラスにも感じられ、関西弁でいうところの「阿呆」なのかも知れないとも思った。

とても講義の内容を楽しめた。


それとは別に自分がハッとさせられた部分がある。講義の中で文学者の中には金持ちの子ども、ボンボンが多いという点である。

講義の中で「夫婦善哉」の織田作之助の実家も金持ちで、織田は実家を離れる時、異常に実家に執着したそうだ。

自分の家もまあまあの資産家であるので、こうして他者の口から「実家に異常に“執着”した」という言葉は、異様にわたしの心に突き刺さった。


自分は昔、それこそ二十歳そこそこの若かりし頃、どうにも立ち行かない状況に陥り、つまりニートをしていて親に詰め寄られたことがある。

その時、わたしは「普通のサラリーマンになりたい」と言ったのだそうだ(自分では覚えていない)。

それは野心がないと、とられるかも知れないし、社会的成功をおさめた父の子であるというプレッシャーとは無縁の生活を送りたい、という願望の現れであったのかも知れない。

はたして自分はそれから三十年近くの時が経過して、父とは無縁の状態で自らの人生を再スタートさせることとなった。

それというのは逆にいうと、自分の人生はそんな歳になるまで「実家に“執着”し続けた人生である」のと同義であった。

そのことを自分は何とも情けなく思い、恥とも感じてる訳だが、自分以外にもそうした人が過去にもいたと言われてる気がして、ある種の安心感にそれは繋がった。

しかし情けなさと恥が同居した状態は変わるはずもなく、自分は死ぬことも出来ないので、醜態を晒して生き続けるということをこの後の人生でも続けることになるのだが。

太宰治という名を成した文豪と自分を同列に並べることは恐れ多いし、彼は小説家として作品を残し、私は作品と呼べるものは何も残してない、単なる消費者であるわけだが、同じ人間で妙に屁理屈が多く、そのくせ人間らしさを捨てられないという点で太宰治に共感を覚え、そしてそれは多くの人が太宰文学を読み継いでる要因でもあるのかなと思った。


まあ、なんだ。長々と書いたが、自分は1・2年前と状況は変わらず、相変わらず人間らしい生活を送り、そしてまた言い訳を繰り返すという、変わらないことを続けているということになると思う。要約すると。

1年経ったが、何も変わってませんでした。


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