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”ウクライナ民族主義者組織 (OUN) と ウクライナ蜂起軍 (UPA)” という論文

2004年の 柳沢秀一 さんという方の論文を、全文をコピペでお借りします。
文部科学省科学研究費補助金の助成を受けた旨、最後の1文に記されています。

とても難しく書かれてあり、自分に全部は理解できませんでした。
興味のある方、どういう内容かお確かめください。

PDFからのコピペの際に文字化けが多く、ある程度手直ししましたが、完全ではないので、出来ればの方へ移動してご覧ください。

元はこちら ↓
https://www.jstage.jst.go.jp/article/gendaishikenkyu/50/0/50_21/_pdf/-char/ja


「ウクライナ民族主義者組織 (OUN)」と「ウクライナ蜂起軍 (UPA)」のウクライナ独立国家構想、とその戦略



|論文|

「ウクライナ民族主義者組織 (OUN)」と
「ウクライナ蜂起軍 (UPA)」の
ウクライナ独立国家構想、とその戦略


一一対ソ政策と対ポーランド政策を中心に一一
                     柳 沢 秀 一
はじめに
 第二次世界大戦後,ソ連はポーランドから西ウクライナを,チェコスロヴァキアからザカルパテイアを,ルーマニアから北ブコヴイナを獲得して囲内のウクライナ共和国に編入し,現在のウクライナ国家の領域の原型がほぼ完成された (1)。ウクライナの領土確定はソ連以外にもポーランドやチェコスロヴァキアをはじめとする東欧諸国の復興にも関係するため,この問題はソ連と東欧の戦後秩序構想に包摂された上で,英米ソの戦時外交とソ連とポーランドなど東欧諸国との交渉において討議された (2)。「ウクライナ民族主義者組織 (Orhanizatsiia Ukrainskykh Natsionalistiv,以下 OUNと省略 )」 とその傘下にある軍事組織「ウクライナ蜂起軍 (Ukrainska Povstanska Armiia,以下 UPAと省略 )」は国際政治においてウクライナの帰趨の決定には参加しなかったが,独自にウクライナ独立国家構想を形成して,その実現を目的として掲げ独ソ戦期,主に西ウクライナで独ソに対して抵抗運動を展開していた。この点に鑑みると, OUNとUPAはウクライナの領土確定の過程を論じる際に,英米ソのような大国や,ポーランドやチェコスロヴァキアなどの東欧諸国と同様に検討の対象に値するアクターとして評価できょう。
 戦後, OUNとUPAは,ソ連史学では独ソ戦期のその対独協力の事実が強調され, 「ドイツ=ウクライナ民族主義」または「ブルジョワ民族主義」と否定的に評価されて (3),その独立国家構想、は検討の対象とはきれなかった。一方,欧米のウクライナ研究では「民族解放運動 」として肯定的に評価され, OUNとUPAの独立国家構想を含め包括的な研究が進められてきた。特に,アームストロング (Armstrong,John)が,大戦期の OUNと UPAをはじめとするウクライナ民族運動を対教会関係やウクライナ各地域の状況など様々な視点から多面的に論じており,その研究は現在でも一級の水準を示している(4)。しかし両者の研究動向とも, OUN・UPAの活動に関して,独ソとの関係に論点が集約され,特に対独協力に関する価値判断に拘泥する傾向が顕著である。 OUNのパンデラ派が 1942年から翌年にかけて対独協力から対独抵抗運動へと方針を転換した経緯を考慮すると,OUNを含めウクライナ民族運動とドイツの関係は多様性を帯ぴ,一律に解釈できない。
 冷戦後,旧ソ連と東欧で機密資料が開示されると,このような価値判断から離れて, OUNとUPAの独立国家構想を含め,ウクライナ民族運動の実態に関する解明が試みられている。ロシアのセミリヤガ (Semiriaga,M.1.)は,冷戦後旧ソ連で開示された機密資料を駆使して大戦期のヨーロッパの対枢軸国協力運動を検証しているが,対独協力に偏重せず、に OUNとUPAり活動とその独立国家構想を扱っている(5)。ウクライナのルスナチェンコ (Rusnachenko,Anatolii) は, OUNとUPAの独立国家構想をその対独ソ関係の他に,対ポーランド関係,亡命政府や地下組織を含むポーランド側の対ウクライナ政策, OUNとUPAの国際政治認識など諸点から多面的に分析している (6)。しかし,ルスナチェンコは, OUNとUPAの国際政治認識とその対独ソ,ポーランド政策との関連性に関して言及していない。
 以上の点に鑑み,小論では先行研究の成果を踏まえ,ウクライナ側の資料を利用して独ソ戦期のOUNとUPAの独立国家構想、とその実現を目的とする戦略を考察する。そもそも,独ソ戦期の OUNとUPAの戦略では, ドイツは抵抗運動の対象であるが,ソ連とポーランドは抵抗運動の対象であるとともに,そのウクライナ独立国家構想にも直接関係する。この点を考慮して,小論では,ソ連とポーランドに対する OUNとUPAの政策の分析を通して,ウクライナ独立国家構想とその戦略に関する検証を試みる。なお,分析対象に関して付言すると, OUNは独ソ戦前にパンデラ派とメリニク派に分裂するが,小論ではこのうちパンデラ派を中心に扱う。また UPAはOUNの指導下にある軍事組織であるが,主に OUN内のパンデラ派の統制下にあった。

1.戦周期 OUNのウクライナ独立圏家構想の形成

 第一次世界大戦前,ウクライナはロシアとオーストリア=ハンガリーの版図にあり分断されてきたが, 1917年のロシア革命後,統一国家建設の試みがなされた。しかし,第一次世界大戦後ロシアと東欧で新たな国際秩序が形成される過程で再び分断され,最終的にソ連が東部と中央部を,ポーランドが西部を,チェコスロヴァキアがザ、カルパティアを,ルーマニアが北プコヴイナをそれぞれ領土に編入した。
 大戦後,ウクライナ人の聞で民族運動が展開されるが,ルドニツキー (Lysiak-Rudnytsky,Ivan)は近代以降のウクライナの政治思潮を人民主義(ナロードニキ),共産主義,保守主義,民族主義に類型化して, OUNを民族主義と位置づけている (7)。ウクライナの民族主義の思潮に影響を与えたのは, ドンツオフ (Dontsov,Dmytro) であった。ドンツオフはナショナリズムの徹底的追求を志向して,民族が独立国家を構成するという見解に立脚して民族を最高の理想形態として絶対視することを骨格とする理論を構築したは)。ドンツオフによれば,民族が絶対的価値を体現し,民族にとり独立国家の実現が最高の目的となる。そして,政治が社会進化論に基づく,生存を賭けた諸民族問の闘争の場である以上,諸民族問の衝突は免れない。そこで,この理想を実現するにあたり,強力な指導者の統制のもとで活動する意志と積極的な行動力が求められる。
 民族主義的傾向を持つ, OUNの先駆的な組織として, 1920年に創設された「ウクライナ軍事組織 ( Ukrainska vijs'kova orhanizatsiia,以下 UVOと省略)」 を挙げることができょう。 UVOは,独立国家を創設するためにウクライナの革命的蜂起の理念を普及することを活動目的と規定しており,その宣伝手段としてテロリズムを採用していた {9I。ポーランドとソ連との協力は峻拒され,1926年に UVO諜報課課長ドゥーミン (Dumin,Osyp) が明らかにしたように,その活動はポーランドとの確囲とした継続的な闘争に収数される(10 )。 UVOは,ポーランドによるウクライナ人地域支配の転覆,ポーランドの影響力の排除,ポーランド政府機関の破壊を通して,ウクライナ独立国家の建設を実現することを実践活動の課題として掲げていた。
 1929年にウィーンで亡命ウクライナ人,主に 1918年から翌年にかけてのウクライナ=ポーランド戦争 (11)の従軍経験を持つウクライナ人により「ウクライナ民族主義者組織 (OUN)J が創設された。 OUNの国家観と民族観は, ドンツオフの理論から多大な影響を受けている。また, OUNはUVOを組織的に継承しなかったが(12) その活動方針を踏襲して,ウクライナ人居住地域からポーランド,ルーマニア,ソ連の支配機構を排除することを活動目的と定めていた。OUNの民族観と国家観,ならびにウクライナ独立国家建設の戦略は, 1929年 1月初日から翌 2月 3日に開催された OUN第一回大会で採択された綱領で明らかにされている。まず,民族は,第1章「政治的課題」の 「A.全般的決定」の第 4項において,「人間の結束に関する最高形態 」と定義され,「その心理的特性を最大限に示す時に,近似した自然状況,歴史的運命の同時的経験,力の緊張状態を最高潮に充たそうとする不断の意欲に基づいて創られる内面的形態を持つことになる 」と説明されている(13)。そして,第 7項で述べられているように,民族は「最高に集中した状態で歴史的使命を自己実現する途上で,その領域的基盤を拡大するのと同時に,自己の生物学,物理学的力を増幅させ」, 「その領域で様々なエトノスの集団が単一の民族組織に統合されるプロセスが長期にわたり生じる」(14)。
 一方,国家は,綱領の第 1章第 10項で, 「民族を構成する諸原動力による相互作用の外面的形態」と定義されている(15)。同章第 11項で規定されているように, 「民族は国家を通して世界史の完全な一員になることができる 」(16)。 OUNの綱領によれば,民族はその生存に必要な空間領域を拡張すると同時に複数のエトノスの集団を糾合して成立する。そして,国家は民族の生命力を増幅し,民族に世界史への登場の機会を提供する。国家のこのような役割に着目して, OUNは,民族が国家を持つ必要性を力説して,綱領の第 13項で, 「政治的に隷属状況にあるウクライナ民族にとり主要な公理は,政治的かっ法的組織,すなわちウクライナ独立統一国家の創設に他ならなしい」という結論を導くのである(17)。
 ウクライナ国家建設に向けた諸政策は,綱領第 1章 「G.外交政策」で列記されている。まず,同章第 2項で, 「ウクライナ人の土地からの征服者追放」が, 「民族革命の時代」とともに到来して,同時に固有の国家内でのウクライナ人の発展が保証される,と予見されている。そして,ウクライナからの「征服者」の追放を実現する手段として,具体的に,「軍備の整備」と「公正な同盟政策 」が列挙されている(18)。同章第 3項では,ウクライナ国家の建設を実現するための方策について検討が加えられている。ここでは,従来の「ウクライナ民族の歴史的な敵の中から特定の者を対象とする民族解放闘争のような伝統的なウクライナ政治の手法Jを放棄して,国際政治においてウクライナが主体的役割を獲得するために国際関係を適切に利用するとともに, 「ウクライナの征服者と敵対関係にある諸民族との同盟」を採用する方針が明確にされている(19)。
 このように,綱領の 「A.全般的決定」で述べられている国家と民族に関する規定は,ウクライナ人が生存する領域内で,ウクライナ人によって運営されるウクライナ国家建設の構想へと発展する。さらに, 「G.外交政策 Jではウクライナ独立国家建設の戦略に関して, r征服者Jに対する武装闘争という戦略に加えて,同盟政策を通じた諸民族との連帯という国際戦略が定式化された。

2. OUN'UPAの戦後国際秩序構想とウクライナ独立国家建設の戦略

 1939年 9月に独ソ両国は 8月初日に締結した独ソ不可侵条約の秘密議定書の取り決めに従い,ポーランドを分割した。その結果,ソ連は酋ウクライナと西ベロルシアを中心とする旧ポーランド東部地域を併合した。そして, 1941年 6月 22日にドイツとその同盟国は突知ソ連領に侵攻して独ソ戦が勃発し,自海から黒海に広がるおよそ 2000マイルほどの戦線が形成された。ドイツ軍はバルト諸国,ベロルシア,ウクライナ,ヨーロッパ・ロシアへと破竹の進軍を重ね,ソ連の西部地域に占領体制を構築した。ドイツの占領体制下では,ウクライナの大部分の地域が帝国コミッサリアート・ウクライナに編入され,西ウクライナのガリツイアから東部が総督府に組み込まれた。
 OUNは, 1940年 2月 10日にクラコフで開催された大会でパンデラ (Bandera,Stepan) とメリニク (Mel'nyk,Andii)が指導部に選出されると (20),両者を盟主とするこつの分派に分裂し,両者は組織内の覇権をめぐり対立を深めていった。このうち,パンデラ派が青年層を主体に,メリニク
派が教養階層を中心とする壮年層から構成されていた。両者の権力闘争は最終的に,パンデラ派が勝利を収め OUN内の指導権を掌握する形で終結する。翌 41年4月にドイツの承認を得て, OUNパンデラ派は 600人規模の部隊を 2隊創設した。ドイツ軍のソ連侵攻の際にはパンデラ,ステツコ(Stets'ko,Iaroslav) を中心とする OUN指導部はこの部隊のうち 1隊を率いてガリツィアに入り,ドイツと行動を共にすることになる。
 OUNパンデラ派は, 1941年 6月 30日にウクライナ国家独立宣言を発表し,その中で「ウクライナ再興国家は国家社会主義大ドイツに対して緊密に協力する。大ドイツはアドルフ・ヒトラーの指導の下で欧州と世界に新秩序を構築し,ウクライナ人民がモスクワの占領から解放されるように援助してくれるからである J(21)と対独協調の姿勢を明確にした。しかし, ドイツはウクライナの独立を承認せず,同年から翌 42年にかけてパンデラ派指導部を一斉に逮捕または殺害した。 1941年8月に OUN内の軍事部隊は解散させられ,パンデラとステツコの二人の指導者がドイツに収監された。こうして,パンデラ派は組織的に壊滅した。
 1941年 11月に帝国コミッサリアート・ウクライナの指揮官としてコッホ (Koch,Erich)が赴任すると,当初融和的であった ドイツの対ウクライナ政策は変化する。 OUNに対する追及はメリニク派にも及び,同派から逮捕者と処刑者が続出した。さらにウクライナ人の文化団体と協同組合も閉鎖に追い込まれ,翌 42年 1月には四学年以上のウクライナ入学童を対象とする初等教育が廃止された。農業政策に関しでも,当初はコルホーズの廃止と農民への土地分配が検討されたが,コツホの指導によりコルホーズが「共同農場」として再編された上で温存された。さらに,帝国コミツサリアート・ウクライナを含め旧ソ連領占領地域でいわゆる「東方労働者」計画が採択されて, 1942年から 1945年にかけて約 230万人の住民がウクライナからドイツに労働力として徴発された (22)。こうしたドイツの占領政策の転換に対してウクライナでは,一般住民の自衛行動,地下組織運動,ソ連主導下のパルチザン運動が綾織され,対独抵抗運動が進められていく。
 OUNパンデラ派はドイツによる弾圧後,徐々に勢力を回復して, OUN内でメリニク派と組織的な派閥抗争を繰り広げていたが,ウクライナ国家建設の路線,特にウクライナ国家建設を進める際の対独協力が両者の対立の争点となった。 1943年のスターリングラード戦でドイツ軍が赤軍に大敗を喫すると,両者ともそれをウクライナ独立国家建設の実現にとって好機と判断した。メリニク派はドイツとの協力を選択し, ドイツから親衛隊 (SS)ガリツイア部隊の創設の承認を獲得した(23)。
メリニク派の選択は,軍事機構を持たない政治機構は独立国家を維持できないとする見解に基づいていた。 SSガリツイア部隊はドイツの軍事作戦に参加して, 1944年 2月のフタ・ピェニャツカの住民虐殺をはじめとするポーランド人村落攻撃に関与して, 1944年 10月にスロヴァキアへ,翌 45年 2月から 3月にかけてユーゴスラヴィアへ派遣されて反独蜂起の鎮圧に従事することにもなる。一方, OUNパンデラ派はスターリングラード戦を契機に,独ソ両国に対する抵抗運動を選択することになる。こうした判断に従って, 1943年 3月にブリパ=ボロヴェツ (Bul'ba-Borovets',Taras)の指揮下にあった「ウクライナ蜂起軍(UPA)J を吸収して再編成していく。
 OUNパンデラ派の描くウクライナ国家像は, 1941年の独立国家宣言においてその骨子が明示されている。当時この国家の実効支配地域は西ウクライナに限定されていたが,同宣言では,キエフを首都とする「ウクライナ国民政府」への同国家の従属が規定されていた (24)。すなわち,西ウクライナの他に,ウクライナの東部と中央部を包含するウクライナ統一国家の建設が想定されたのである。その構想は, 1943年のヴイロヴィー (Vyrovyi,M.V.) の論説「ウクライナ独立革命戦線」において論じられ、「エトノスの領域Jで農民,労働者,知識人から構成されるウクライナ国家の理念の実現が課題として設定されていた (25)。ここから明らかなように,パンデラ派はウクライナ
人が居住する領域におけるウクライナ国家建設を想定していたのである。  OUNパンデラ派のウクライナ独立国家構想は戦後の国際秩序の再編を前提としていた。その国際秩序構想は, 1943年 2月 17日から 21日にかけて開催された OUN第三回大会決議で明らかにされている。それは,「エトノスの領域に基づく」諸民族の国家から構成される国際社会の建設であり,向決議の規定によると,この国際秩序の下で各民族は国家を持つ権利を保障されることになっていた(26)。ウクライナ独立国家はこのような国際環境において実現され,またこのような国際秩序に包摂されることになる。このように ,OUNパンデラ派は,ウクライナ人が居住する領域内でのウクライナ国家の建設という,戦前の原則を「エトノスの領域に基づく」国民国家の建設という方針に普遍化した上で戦後国際秩序構想を新たに形成したと言えよう。
 ところで,独ソ戦期の OUNパンデラ派と UPAの論考には民族とエトノスが混合される傾向が見られ, 「エトノスの領域に基づく国家」の主体がエトノスと民族のどちらを念頭に置いているのか明確に説明されていない。これらの論考では, 「エトノスの領域」に基づく国民国家が言及される場合,戦前の民族観が捨象され,むしろ民族が居住する領域を念頭において論じられることが多い。こうした事情が背景となって,独ソ戦期の論考には,民族がエトノス諸集団を糾合して形成されるという,戦前の OUNの民族観との聞に不整合が散見されるが,小論では原文に従い便宜的に「エトノス」という用語で統一する。
 OUNパンデラ派と UPAが構想する国際秩序の形成は,第二次世界大戦の結果に規定されることになる。その国際政治観によると,国際社会は「帝国主義勢力」と「非抑圧民族」から構成され,後者は前者から政治,経済,社会,文化の側面から支配を受ける存在である。 OUNパンデラ派は第二次世界大戦を, r帝国主義勢力」と「非抑圧民族 」との聞の闘争,「帝国主義勢力」問の闘争という二つの側面から分析していたが,ミロンニオルリク (Myron-Orlyk,D.) は 1942年の論説「我々の課題」で,前者の視点から,大戦がヨーロッパ,アフリカ,アジア,アメリカの各地域における民族,経済,文化・文明に関する秩序の大規模な革命を帰結する,と展望を描いていた (27)。
 一方,「帝国主義勢力」聞の闘争という観点から,第二次世界大戦の本質を英米ソとドイツとの聞で展開される「帝国主義戦争」とする分析が導き出され,「帝国主義勢力」の国力の関係が戦争の帰趨と戦後国際秩序を規定するという結論が帰結される。国際政治では英米は国益の充足を求めて行動し,先述の OUN第三回大会決議が言及しているように, ドイツを牽制する戦略に則して英米は外国,特にソ連の軍事力を東部戦線において利用している (28)。それに加えて,ウラセンコ(Ulasenko,B.M.)が 1943年の論説「我々の努力」で指摘するように,英米はウクライナを含めてソ連と東欧の実情に精通していないため,ウクライナ独立問題を「モスクワの圏内問題 」と解釈していた (29)このような評価から OUNパンデラ派と UPAは,独立を志向するウクライナの対ソ抵抗運動に対する英米の支持を期待していなかったのである (30)。
 このような分析に従って ,OUNパンデラ派と UPAは第二次世界大戦の「帝国主義勢力」と「非抑圧民族Jの闘争という側面を重視して,「非抑圧民族 」を糾合して統一戦線を形成し, 「民族革命」を推進していく戦略を選択していく。そして,この「民族革命」を経て,国際政治が「エトノスの領域に基づく」諸民族の国家から構成される国際社会へと再編され, 「被抑圧民族」が独立を実現し国家建設に着手すると展望する。「非抑圧民族Jが統一戦線を形成する場合,その闘争の対象である「帝国主義勢力Jは,ソ連と東欧の両地域を支配している独ソに限定され,英米はその対象から分離される。こうして,ウクライナ国家の建設は「民族革命 」に包摂され,その過程において進められることになる。
 ウクライナ国家建設の具体的戦略は, UPAの行動綱領において規定されていた。まず,ウクライナ国家の創設を実現する手段として独ソとの武力闘争が選択された (31)。綱領では,独ソ両国の内実が帝国と断定され,両国に対して「一つの優勢な民族が他の民族を文化的かつ政治的に隷属させ,経済的に搾取する帝国主義」という否定的評価が下されていた。そして,その評価に基づき,独立国家建設とともにウクライナから独ソの支配を排除することが,対独ソ抵抗運動の目的として規定されたのである (32)ここにおいて,ウクライナの「征服者」に対して敵対感情を持つ諸民族との同盟締結という戦前の OUN綱領に規定されていた国際戦略は, r帝国主義勢力Jに対する「非抑圧民族」の統一戦線の下での,独ソの支配下にあるヨーロッパ諸民族との連帯を通じた「民族革命」へと発展したのである。
 このように, OUNパンデラ派と UPAは, ドイツのウクライナ占領政策やスターリングラード戦といった国際情勢の変動に直面して, 「エトノスの領域」に基づく国民国家で構成される戦後国際秩序を構想する。そして,この構想を実現する戦術として,国際社会を「帝国主義勢力」と「非抑圧民族」に二分する国際政治観に基づき, 「民族革命Jの実現を目的とする諸民族の連帯を通じた「非抑圧民族」の統一戦線の建設という戦略を編み出していくことになる。ウクライナ独立国家構想はこの戦後国際秩序とそのための戦略に包摂され, OUNパンデラ派と UPAのソ連とポーランドに対する政策はこの戦略に基づいて形成されていく。

3. OUN.UPAの対ソ政策とウクライナ独立国家建設の戦略

「帝国主義勢力 」と「非抑圧民族Jに着目する国際政治観は, OUNパンデラ派と UPAの対ソ政策に適用され,「ロシア帝国主義」を体現するソ連体制とロシア人は峻別された。ソ連体制はロシア帝国の変形と断定され,ウクライナ独立国家を建設する際に打倒するべき対象と規定される。ヴィロヴィーは 1944年の論説「スターリン主義 = ボリシェヴィキ帝国主義者の試みとわれわれの対応」において,ソ連のスターリン指導部の囲内政策の目的を「被支配民族Jの同化あるいは破壊と分析している (33)。そして,この政策が,イデオロギーと政治の分野で「被支配民族」の情神を荒廃させ,その「自由を求める J解放運動に「外国勢力の陰謀」という熔印を押すソ連の試みにおいて顕在化していると指摘している。
 一方,ロシア人は, 「帝国主義勢力」である旧ロシア帝国とソ連の両体制から被害を受けていたという判断に基づき, OUNパンデラ派と UPAの戦略では「非抑圧民族」に位置づけられる。そして,「モスクワ帝国主義者から解放される」ことにより,ロシア人全体が再生すると説かれ,ロシア人との協力が模索されることになる。ロシア人との協力が選択される背景には,シャハイ (Shakhai,D.,)が論説「ロシア人民に対する戦術 」で言及したように, 1905年と 1917年の二度のロシア革命においてウクライナ人とロシア人が協力した経験に基づき,ウクライナ民族運動の聞でロシア人が対独ソ抵抗運動の協力者として高い評価を得ていた事情が挙げられる(34)。このように, OUNパンデラ派と UPAは,ロシア人を「帝国主義勢力」から分離して「非抑圧民族」陣営に組み入れ, 「帝国主義勢力」に対する「民族革命Jに関与させる戦略を試みたのである。
 それと同時に, OUNパンデラ派と UPAのロシア人に対する戦略に, 「エトノスの領域」に基づく国民国家の原射が適用されたのであった。ロシア人に対してその民族的再生の協力の姿勢が明確に打ち出されているが,それは, 1943年のヴイロヴィーの論説「ロシアとウクライナ」で明らかにされているように,具体的には,ロシア人に「エトノスに基づく領域での国民国家 」の建設を承認することに他ならない(35)。これは,ロシア人の国民国家の領域をソ連内のロシア共和国に限定して,ウクライナ人地域に関するロシア人の請求を封じ込め,ロシア人地域とウクライナ人地域を分離することを意味する。
 このように, OUNパンデラ派 'UPAの対ソ政策では, 「非抑圧民族」と「帝国主義勢力 」 との闘争の論理が適用され,ロシア人を「帝国主義勢力」であるソ連体制から分離させ, 「被抑圧民族」の「民族革命Jへの関与を促す。そして,「民族革命」の実現とともに,ソ連が諸民族の国民国家から構
成される集合体に再編され,同時に「エトノスの領域 」に基づくロシア人の国民国家が建設されるという展望が描かれる。ウクライナは,ソ連の解体と再編の過程において独立を達成し,国家建設に着手することになる。こうした展望が示しているように ソ連の解体と再編はウクライナ独立の前提条件となり, OUNパンデラ派・ UPAの対ソ政策の目的はこの条件を創出することにあると言えよう。
 このような論理は, 1943年 6月の UPA本部隊によるロシア人への呼びかけにおいて展開されている (36)。ここでは,戦後国際秩序構想とソ連の再編が関連付けられて論じられている。まず,「帝国主義勢力 」との闘争と,エトノスの領域に基づく国民国家建設という「公正な原則」に基づくヨーロッパ東部とアジアの再建が,これら諸地域の民族問題の解決になると主張されている。その上で「独立国家の共生」が「帝国主義の諸民族虐殺」を停止させ,世界経済を発展させる条件を醸成することが展望される。さらに,ソ連体制の下でロシア人が受けた被害が言及され, rポリシェヴィキの帝国主義によりロシア人は流血を伴う迫害を受け,何百万の人々が虐殺されることになる」という将来像が提示される。こうした説明に基づいて,ロシア人に対して,帝国主義戦争を停止して内外の「帝国主義との闘争」に着手して,他民族の征服の放棄と,エトノスの領域に基づいたロシア人の国民国家の再建が喚起されるのである(37)。
 OUNパンデラ派と UPAの対ソ政策は,ロシア人に限定されず,ソ連傘下のパルチザン軍と非ロシア系諸民族も対象とするものであった。 1943年 10月の UPA本部隊によるパルチザン箪に対する呼びかけでは,第二次世界大戦期の国際情勢とその展望を中心に論旨が展開される。まず,ソ連体制がドイツとともに「帝国主義」として非難される。ソ連は「クレムリンの帝国主義」として,「ベルリンの帝国主義」と同様に「人民の敵 Jと断定され,コルホーズ, 1933年の飢謹,白海運河,1937年の大粛清,シベリアでの強制労働,強制収容所などその諸政策がドイツの政策と同列に扱われる。次に,国際政治情勢へと論点が移り,独ソ戦に関する分析へと進む。この呼びかけによると,ソ連は英米と枢軸国との戦争において兵力供給という点で英米に多大な貢献をしているが, ドイツの敗北後ソ連のこうした役割は終鷲を迎える。同時にヨーロッパの「被抑圧民族」が第三勢力として浮上して, 「帝国主義戦争」は「民族解放戦争Jに転換して,最終的に「諸民族の牢獄」が崩壊して独ソがヨーロッパから一掃される,という展望が示される。そして,最後に,ウクライナ人と,アジアとヨーロッパの「被抑圧民族」との協力関係に言及が移り,ウクライナ人の「解放」と国際秩序の形成を志向する UPAの「闘争」と,独ソという「牢獄」を一掃し独立国家を形成することを目的とするグルジア人,アルメニア人,タジク人,アゼルパイジャン人,キルギス人など諸民族の抵抗運動の三者が結び付けられて説明される。
 一方,アゼルパイジヤン人,アルメニア人,グルジア人,ヴォルガ・タタール人などソ連内の非ロシア系諸民族に向けた対独ソ抵抗運動の呼びかけには,以下のような論旨が展開されている (38)。まず,各民族の短期間の独立時代からロシア帝国とソ連の支配下での独立運動までの概略が述べられ,ロシア帝国とソ連による独立運動弾圧の歴史が強調される。そして,独ソ戦期の現状に関する説明に移り, 「全体主義」の政治体制と占領地域での政策に視点が設定され独ソ両国の比較が試みられる。そして,結論として,独ソ両国が戦争で疲弊して崩壊に至るという将来像が描かれる。最後に,両国の支配を受けている諸民族が共同戦線を形成して「解放と独立」のために戦闘に従事する必要が説かれ,その一環として UPAとの共闘が呼びかけられる。
 このように,ロシア人とソ連・パルチザン軍への呼びかけでは,ヨーロッパからアジアに及ぶ国際政治の変動という文脈の中でソ連邦の再編が位置づけられている。すなわち,独ソという「帝国主義勢力Jに対する「民族革命」の結果,エトノスの領域に基づく国民国家を構成主体とする国際秩序が成立し,同時にソ連も国民国家の集合体として再編されて,ロシア人の国民国家が創設される,という構図が示されている。この点で, OUNパンデラ派と UPAの対ソ戦略において,ソ連の解体と再編が戦後国際秩序構想、に包摂されている点が強調されていると言えよう。
 その一方で .OUNパンデラ派と UPAによる非ロシア人とロシア人への呼びかけの聞には相違が存在していた。非ロシア人に対しては,抵抗運動の目的として独ソからの解放と独立が掲げられるだけで,その後の展望に関しては詳細に検討されていない。しかし,ロシア人に対しては,これまで概観したように,ソ連邦の再編という観点からロシア人国家の再生が説かれ,独ソに対する抵抗運動の展望と目的が明確に提示されている。こうした点が反映されて,非ロシア人への呼びかけで
は感情に訴えるような形で論旨が展開されているが,ロシア人に対しては 上記の論点が冷静に展開されている。このような相違点から, OUNパンデラ派と UPAの対ソ戦略において,ロシア人重視の姿勢が類推できょう。 OUNパンデラ派と UPAの対ソ政策において,ソ連邦の再編の帰趨を決するのは,ロシア人の動向であり,特に非ロシア系諸民族に対するロシア人の対応が重要となる。そしてウクライナ独立を実現するにあたり,特にロシア人とウクライナ人の関係改善が要請される。
 しかし,第二次世界大戦は, OUNパンデラ派と UPAが想定した「民族革命」ではなく,英米ソのドイツに対する勝利という,いわば「帝国主義勢力 」の国力関係の変化という形で終結し,戦後ソ連は東欧において覇権を確立していく。このため,戦後, OUNパンデラ派と UPAが想定していた国際秩序は構築されず,ソ連の再編も生じなかった。戦後国際政治の現実の前に, OUNJ'{ンデラ派と UPAの対ソ政策はその有効性を喪失していくことになる。
 OUNとUPAは戦後,ソ連を対象とする抵抗運動を展開するが,こうした状況に呼応して,ロシア人とウクライナ人の相互理解の展望に関して懐疑的な論調を強めていく。ホルノヴィー(Hornovyi,0.,)は 1949年 6月に発表した論考「ロシア人民に関する我々の見解Jにおいて,ロシア人に「帝国主義的思考」が定着していることを指摘する (39)。そのような性向は,ロシア人を他
民族に対する迫害という行為へと導き,ロシア人の精神の荒廃を帰結する,と示した上で,ホルノヴイーは,「rロシア帝国主義」がソ連領内の諸民族に「苦難をもたらした」事実をロシア人に喚起している (40)。ホルノヴイーの視点には,ソ連体制とロシア人の同一視に回帰する契機が見出せるが,それはほぼ同時期に発表されたラムゼンコ (Ramzenko,Vsevolod)の「なぜ我々はウクライナ独立統一国家を支持するのか」において発展する (41)。ラズメンコは対ソ抵抗運動の戦略においてロシア人に対する闘争を否定して,ウクライナ人の抵抗運動の対象をあくまでも「全民族の独立の敵であるポリシェヴィキ」に設定しているが. 「ロシア人国家J. 「ロシア人J.「ロシア帝国主義 」の三者を同一視して,ソ連体制とロシア人を分離する視点を放榔する姿勢を示している。

4.0UN.UPAの対ポーランド政策とウクライナ独立国家建設の戦略

 独ソ戦期 .OUNパンデラ派と UPAは西ウクライナにおいてポーランド系武装組織との間で武力衝突を展開し,その結果同地域では,ウクライナ人とポーランド人の村落の大半が破壊された。そして, 1943年の西ウクライナのヴォルヒニャにおけるウクライナ人勢力によるポーランド人の大量虐殺をはじめとして,両者の間では相互に大量殺裁が発生した(42)。もともと西ウクライナがポーランド人とウクライナ人をはじめ多民族が混住する地域であった事情に加え,ポーランド側とウクライナ側双方の武装組織が同地域で活動を展開していた。さらに,ロンドンの亡命政府や武装組織をはじめポーランド側が独ソによるポーランド分割以降,西ウクライナを含めソ連に編入された地域の回復を請求する姿勢を堅持していたのに対し,ウクライナ側も西ウクライナを含む領域から構成される独立国家の建設を構想していたために,両者の問で直接対立が生じたのであった。
 OUNパンデラ派と UPAは,対ポーランド政策にも, r帝国主義者 jと「被支配者 Jの二分化,エトノスに基づく国民国家建設の原則を適用した。まずポーランド指導層とポーランド一般市民とを分離して,ウクライナ=ポーランド対立の原因をポーランド指導層の行動に還元している。 1943年10月の OUNの報告書では,ヴォルヒニャにおけるウクライナ人とポーランド人の対立の原因が,両大戦間期のポーランド政府の対ウクライナ政策に求められている例。報告書は,戦間期にポーランド政府が政治,文化,社会の諸分野におけるウクライナ人の発展に対抗するためにポーランド人を利用して,「ウクライナ人の土地でポーランド人諸階層に排外的機運と,民族主義的かつ敵対的不寛容を普及あるいは強化している」と非難している。そして,ポーランド指導層が独ソ戦勃発後も依然としてポーランド人とウクライナ人との相互憎悪を扇動し続け,ポーランド系武装組織の出版物を通してウクライナ人に対する「ポグロム」の構想とウクライナ人の土地に対する執着を表明して, 「ウクライナ民族解放運動」を「独立ポーランド国家建設に対する第一の,かつ最も重大な脅威」とする見解を流布させている,と分析している。
 ポーランド指導部とポーランド人の分離は, 1943年 8月 21日から 25日にかけて開催された OUN第三回拡大会議の決議で定式化される。同決議で, 「ポーランド帝国主義の指導者は外国の帝国主義者の下男であり,かつ民族の自由の敵である。彼らはウクライナのポーランド人とポーランド本国のポーランド人をウクライナ人との戦闘に巻き込み, ドイツとソ連の帝国主義によるウクライナ民族の抹殺を援助している 」(44) という見解が示された。ポーランド指導層は,「帝国主義勢力」である独ソの協力者と位置づけられたのである。
 さらに, OUNパンデラ派と UPAは,「r帝国主義勢力」に対する「非抑圧民族Jの「解放闘争」という論理と, 「エトノスの領域Jに基づく国民国家の建設という原則を対ポーランド政策に適用した。 1943年 12月の西ウクライナのヴォルヒニャ在住のポーランド人に対する UPAの呼びかけで,まず,ウクライナ人には「外国の土地で略奪を行う意志 Jを持たないことを明らかにした上で,「帝国主義勢力」に対する「西洋と東洋の非抑圧民族 j との共闘という,自己の活動方針を説明する (45)。そして,ウクライナ人とポーランド人の国家建設に関する見解に言及して,「ウクライナ人の土地におけるウクライナ国家の建設」という原則に加えて,ウクライナ側が「西洋と東洋の非抑圧民族Jおよびポーランド人が「エトノスに則した領域」に国家を建設することを支持するという行動指針を明らかにした。
 OUNとUPAの戦略では,「エトノスに基づく領域J内でのポーランド人の国民国家建設は,ヴオルヒニャを含む西ウクライナに関するポ}ランド側の領土請求の放棄を前提とする。この方針に基づき,ヴォルヒニャへの領土請求を表明するポーランド側の指導者の行動は独ソと同様に「帝国主義」として断罪されることになる。 1942年 4月に開催された OUN第二回大会で採択された政治決議では,「独立国家」という立場で対ポーランド人関係を改善するウクライナ側の意向が示されたが,同時に「酋ウクライナの土地に関するウクライナ人の権利の承認と尊重Jを主張する姿勢も鮮明にされた (46)。さらに,ポーランド人の反ウクライナ的姿勢と西ウクライナに対するその「欲求J
とも「闘う」方針が明らかにされた。このように, OUNパンデラ派と UPAの対ポーランド政策には,西ウクライナをウクライナ固有の領土とする強固な主張と,同地域に関するポーランドの請求を峻拒する姿勢が顕著であった。
 対ポーランド政策は, 1943年のボロピッチ (Borovych,Ya.V.)の論説「ウクライナとポーランド」において検討されている。ボロピッチは,この論説で中世史から説き起こして,ウクライナとポーランドの関係を説明しているが,特にウクライナ人,ベロルシア人,リトアニア人を「隷属化」させようとするポーランド指導層の姿勢を非難する (47)。この論点は 1944年のサドーヴィー(Sadovyi,O.S.)の論説「ポーランド人はどこに向かうのかJに継承されていく。サドーヴィーは独ソ戦期のポーランド人とウクライナ人の問で展開された抗争の原因をポーランド側の行動に帰しているが,同時にポーランド指導層のウクライナ人,ベロルシア人,リトアニア人など非ポーランド系諸民族の政策をドイツやソ連の政策と同列に扱っている (4九ボロピッチとサドーヴイーは,対ポーランド政策に関して視点をウクライナに拘泥せず,ウクライナ人を含め,ベロルシア人,リトアニア人など多民族が居住する旧ポーランド東部地域にまで拡大した。すなわち,旧ポーランド東部地域をウクライナ,ベロルシア,リトアニアの諸民族の国家により再編する構想を提示したのである。ここにおいて, OUNパンデラ派と UPAの対ポーランド政策は,ポーランド再編を包含する契機を得たと言えよう。
 しかし, OUNパンデラ派と UPAの対ポーランド政策には,西ウクライナからポーランド人を追放して同地域におけるポーランド人問題を最終的に解決するという戦略も内在されていた。 OUNパンデラ派の指導者は第一次世界大戦末期の経験,特にドイツ,ロシア,オーストリア=ハンガリ一三帝国瓦解後のポーランドの浮上,ウクライナ=ポーランド戦争でのウクライナ側の敗北という経験に照らして,第二次世界大戦が独ソの崩壊で終結し,その場合ウクライナの独立を実現する上での最大の障害がポーランドであると分析していた。こうした予見に基づき, OUNパンデラ派の指導者は,大戦中にウクライナ独自の軍隊を創設し,大戦終結後に予想されるポーランド軍のウクライナ進出に備える戦術を採用したと言える (49)。ポーランド人追放と UPAという軍事機構の創設は,まさにこのような構想から帰結されるのである。
 独ソとの抵抗運動と並行して OUNパンデラ派は西ウクライナからのポーランド人追放を進めていき,特にレベヂ (Lebed',Mykola)を中心とする若手の指導者が中心となった。 1943年 4月レベヂは「革命地域からのポーランド人住民の追放Jを提案して,西ウクライナのヴォヒニャからのポーランド人住民の追放が決定された(引~同年春に UPAはヴォルヒニャの管轄権をドイツから奪取すると,レベヂの提案に基づき,ポーランド系住民に西ウクライナからの退去を求めて攻撃を開始する。機関紙『闘いへ jの 1943年第一号では, rウクライナに踏みとどまるポーランド人には不名誉な死を与えよ」(51) とポーランド人追放の姿勢が鮮明にされ,同年 6月 UPA北部軍司令官クラチュキウスキー (Klachukivskyi,RomanDmytro) は, ドイツ軍が退却するまでに 16歳から 60歳までの「ポーランド系住民の根絶」を指令していた(52)。翌 44年 2月 9日付に OUN指導部は傘下のクシュチュ自衛部隊司令官に教会や礼拝所,家屋を含むポーランド人の財産の破壊を指令し,家屋の破壊については期日を同年 2月 25日と定めた(53)。カラト (Karat,Orest) は 1944年 4月6日付の特別指令では, rポーランド入居住者の少ない地域におけるポーランド人とボリシェヴィキの代理人を務めるウクライナ人を根絶すること」を指令した (54)。
 ヴォルヒニヤでは, 1943年 3-4月, 7-8月, 12月にポーランド系住民への攻撃が集中的に実施され,ポーランド人の人口は激減して, 1939年から 1943年の同地域のその人口比率は 16パーセントから 8パーセントにまで落ち込んだ(55)。この時のポーランド系住民の被害者数は論者により5万人から 50万人と幅があるが,現在では 5万人から 6万人と試算されている(56)
 OUNパンデ ラi派と UPAによるポ一ランド人への攻撃と追放政策は,ポーランド系武装組織によるウクライナ人への報復を招いた。 OUNとUPAの攻撃から逃れドイツ支配地域に避難したポーランド系住民が,ポーランド系自衛軍事組織, ドイツ行政機構とソ連パルチザン箪に流入して,ウクライナ人への攻撃に着手した。 1943年5月288付のロヴノ州パルチザン運動分隊参謀の報告書は,同州でポーランド人がウクライナ系武装組織の攻撃に対して自衛組織を形成して抵抗していた事実を報告している (57)。こうしたポーランド系住民の対応は, OUNパンデラ派や UPAにポーランド人攻撃の正当性を提供することになった。 1943年 8月3日付のウクライナ国家保安人民委員宛報告書では,ウクライナ・パルチザン運動軍参謀長が, OUNや UPAが全てのポーランド人を「ヒトラーのスパイ 」と理解している,と説明している (58)。このように, OUNパンデラ派と UPAによるポーランド人攻撃と追放の論理には,ポーランド指導層とポーランド人を分離する視点が欠如して,ポーランド指導層とポーランド人の両者が独ソと並ぶ攻撃対象として設定されたのである。こうして,ウクライナ人とポーランド人の対立は増幅され,武力衝突が再生産されることになった (59)。西ウクライナにおけるウクライナ人とポーランド人の武力衝突の連鎖は, 1944年 10月にソ連が同地域を再占領するまで継続することになる。OUNパンデラ派と UPAの対ポーランド政策の目的は,ポーランドをポーランド指導層とポーランド人に分離して,後者を主体にした国民国家に再編することにあった。この過程で, 「エトノスの領域に基づく国民国家」建設の原則が適用されて,西ウクライナはポーランドから分離されてウクライナ国家の領域内に編入され,ウクライナ国家が建設されることになる。この点ではソ連の解体と再編を通してウクライナ国家を建設するという対ソ政策の目的と共通しているが,対ポーランド政策では「エトノスの領域に基づく国民国家」建設の原則が強調され,西ウクライナからのポーランド人追放という非主要民族ないしは少数民族の物理的排除が伴った。元来, OUNパンデラ派とUPAのウクライナ国家構想、では, UPAの行動綱領で規定されているように,ウクライナ国家内の少数民族に対する文化活動と法の上の平等に関する保障が言及されて (60),多民族の共存が想定され
ていたが,その対ポーランド政策では西ウクライナからのポーランド人追放に見られる,少数民族の保護という原則からの逸脱が生じたのである。このように, OUNパンデラ派と UPAの対ポーランド政策は,その戦後国際秩序構想とウクライナ独立国家構想、の戦略の骨格を成す「エトノスの領域に基づく国民国家」が,ウクライナ人と非ウクライナ人の関係調節という問題を内在していた点を明らかにしたと言えよう。

おわりに

 OUNと UPAのソ連とポーランドに対する戦略は結果的には有効性を喪失したが,それはそのウクライナ国家構想の脆弱性とウクライナ独立に向けた戦略の限界を象徴している。第ーに, OUNパンデラ派と UPAのウクライナ独立国家建設に向けた戦略では,「被抑圧民族」による「民族革命Jを経た上で戦後国際秩序が形成され,その過程でソ連とポーランドが再編され,ウクライナ独立国家が誕生する。したがって,そのソ連,ポーランド両国に対する政策は,ウクライナ独立国家建設の条件を醸成することを目的としていた。しかし,戦後国際秩序を確立した要因は, 「被抑圧民族」と「帝国主義勢力Jとの聞の「民族革命Jではなく,日独伊の枢軸国に対する英米ソの連合国の勝利に象徴される「帝国主義勢力J問の国力の関係であった。このような国際政治の情勢に拘束されて, OUNと UPAのソ連に対する政策は,両国の再編を促すには無力であった。
 第二に, OUNパンデラ派と UPAの掲げる「エトノスの領域に基づく国民国家」の建設を骨子とする戦後国際秩序構想にも限界が内在していた。大戦期には, 「帝国主義勢力」対「非抑圧民族」という対立の構図の他にも,OUN・UPAとポーランド人勢力との武力衝突が示すように, 「非抑圧民族 」聞の措抗関係が現出していた。この「非抑圧民族」間の措抗関係から,「エトノスの領域に基づく国民国家」における諸民族関係の調節が要請されることになる。 OUNパンデラ派と UPAは,ウクライナ国家構想で規定された少数民族保護の原則の遵守ではなく,西ウクライナからのポーランド人追放という,少数民族の物理的排除という手段を通してこの課題の解決を試みた。これは,OUNパンデラ派と UPAの独立国家建設と戦後国際秩序を含む戦後構想とその戦略が,ウクライナ内の諸民族間関係の調節に対処できなかった点を知実に示していると言えよう。
[付記]本稿は平成 16年度文部科学省科学研究費補助金(課題番号:15310170) の助成を受けて作成された。


(l) 1954年にソ連内でロシアからウクライナヘクリミア半島が移管されて,現在のウクライナ国家の領域が完成したと言える。
(2) 英米のウクライナ問題に対する対応に関しては, Luciuk,Lubomyr Y. & Bohdan S.Kordon (eds.),Anglo-American Perspectives on the Ukrainian Question 1938-1951.ADocumentary Collection (Kingstone &
New York,TheLimestonePress,1987)を参照。また,国際政治とソ連=東欧諸国関係におけるウクライナの領域確定に関しては,ポーランドやチェコスロヴァキアの戦後領土確定に関する交渉と関連付けられて論じられている。ポーランドに関しては,Terry,SarahMeiklejohn,Poland'sPlaceinEuγope'GeneγalSikorski
αnd dthe0riginoftheOdeγ-NeisseLine,1939-1943(Princeton,NewJersey,PrincetonUniversityPress,1983),Tebinka,Jacek,Polityka brytyjska wobec pγoblemu granicy polsko-radzieckiej1939-1945(Warsaw,Nenton,1998),広瀬佳 -「ポーランドをめぐる政治力学一冷戦への序章 1939-1945」勤草書房, 1993年を参照。また,旧チェコスロヴァキア領のザカルパテイアに関しては Mar'ina,Valentina,ZakarpatskaiaUktaina(Podkarpatskaia Rus’)v politikeBenesha i Stalina.1939-1945gg.Dokumeηtal'nyi ocherk(Moscow,
Novyikhronograf,2003)を参照。
(3) ソ連時代のウクライナ民族運動の記述については,以下の文献を参照されたい。 Klokov,V.1(ed.),Istoriia Ukrainskoi SSR Vol. VllI : Ukrainskaia SSR v Velikoi Otechestvennoi voine Sovetskovo Soiuza(1941-1945) (Kiev,Naukovadumka,1984),Likholat,A.V. (ed.),Istoria Ukrainskoi SSR vol. IX : Ukrainskaiia SSR v period postroeniia razvitogo sotsialisticheskogo obshchestva 1945- nachala 60-kh godov (Kiev,Naukova dunka,1985)
(4) Armstrong,John,UkrainianNatioπalism 3rd ed.(Englewood,UkrainianAcademyPress,1990)
(5) Semiriaga,M.1., Kolaboratsionizm : Priroda,tipologiia i proiavleniia v gody vtoroi mirovoi voiny (Moscow,ROSPEN,2000),pp.4B5-529
(6) Rusnachenko,Anatolii,Rozumom i sertsem: Ukraiinska suspilno-politychna dumka1940-1980-kh rokiv (Kiev,KMAcademia,l999)
(7) Lysiak- Rudnytsky,Ivan,Istorychni ese vol.2(Kiev,Osnovy,1994)p.66。ルドニツキーの他にも,モテイル (Motyl,AlexanderJr)がウクライナ政治思想における OUNの位置確定を試みている。モテイルは,ルドニツキーが民族主義と定義した政治思潮を「右派」と評価して, OUNの政治思想を主にロシア革命後の内戦期のウクライナの政治思潮に還元させて論じている。 Motyl,Alexander Jr.,The Turntothe Right: The Ideological Origns and Developmeπt of Ukrainian Natioπalism,1919-1929(NewYork,ColumbiaUniversityPress,
1980)
(8) ナショナリズムに関するドンツオフの理論については,以下の論考を参照。 Dontsov,Dmytro,"Natsionalizm" in Dontsov,Dmytro,Tvory vol.1 (Lviv,Kalvariia,2001)
(9) Poliszeczuk,Wiktor,Dowody zbrodni OUN i UPA: integralny nacjonalizm ukrauiski Jako odmiana faszyzmu t.2(Toronto,2000),p.30
(10) Ibid.,p.34
(11) 第一次世界大戦末期の 1918年 11月に西ウクライナのガリツィアで成立した西ウクライナ人民共和国とポーランドとの間の武力衝突を発端に,ウクライナ=ポーランド戦争が勃発し,翌 19年 7月にポーランド軍がガリツイアを掌握するに至った。
(12) UVOは 1931年まで組織的に存続していたが, OUN創設後, UVOから OUNへと人材が流出していた。
(13) Lytvyn,Volodymyr,Ukraina . mizhvoenna doba(1921-1938)(Klev,AI'ternatyvy,2003),p.502
(14) Ibid
(15) Ibid.,p.503
(16) Ibid.
(17) 1bid.
(18) Ibid,p.507
(19) Ibid
(20) 同大会に決議については, Kosyk,Volodymyr,Roskol OUN(1939-1940). Zbirnyr dokumentiv (Lviv,Lvivskyi derzhabnyiuniversytet im. I. Franka & Instytut ukraiinoznavstva im Krypiakevycha NAN Ukramy,1997),pp.26-
27を参照。
(21) Serhiichuk,Volodymyr,OUN-UPA v roky viiny. Novi dokumenty i materialy (Kiev,Dnipro,1996)(以下,OUN-UPAと略), p239
(22) Magocsi,PaulRobert,A History of Ukraine (Toronto,Buffalo,London,UniversityofTorontoPress,1996),p.634
(23) SSガリツイア部隊については, Logusz,Michael0 ,Galicia Division: The Waffen-SS 14th Grenadier Division 1943-1945(Atglen,PA,Schiffer Mihtary History,1997)を参照。
(24) OUN-UPA,p.239
(25) Majiwskyj,Jurij& Yevhen Shtendra(eds.),LitopysUPA,vol.24. Ideya i chyn (Toronto,LitopysUPA,1995) (以下 ,LitopysUPA,vol.24と省略), p.92
(26) Ibid.,p.139
(27) Ib似, p.53
(28) Ibid.,p.135
(29) Ibid.,p.182
(30) OUNとUPAは,英米を「帝国主義勢力 Jに分類しており,アメリカに関しては,その国内社会の多元性という特質が諸階層の対立をもたらし圏内社会が不安定であると分析して,高〈評価していなかった。
(31) OUN-UPA,p.313
(32) Ibid.
(33) LitopysUPA,vol.24,p.287
(34) Shtendera,le&P.Potichnyj(eds.),LitopysUPA Vol,8. Ukramska Holovna Rada. Dokumenty,ofitsiini
publikatsii,materialy.Book1:1944-1945(Lviv,LitopysUPA,1992),p.233
(35) Litopys UPA,vol.24,p.144
(36) OUN-UPA,pp.316-317
(37) Ibid.p.317
(38) Shtendera,le&P.Potichnyj(eds.),LitopysUPAVol,1. Bolyni Policcia. Nimetska okkupantsiia Book1. Boiobi dii UPA 3rd ed.(Toronto,LitopysUPA,1989),pp.175-203
(39) Shtendera,Ie&P.Potichnyj(eds.),Litopys UPA Vol,9. Ukrainska Holovna Rada. Dokumenty,ofitsiini publikatsu,materialy Book2.1946-1948(Lviv,LitopysUPA,1992),p.91
(40) lbtd
(41) Shtendera,le& P.Potlchnyj(eds.),Litopys UPA Vol,10 Ukrainska Holovna Rada Dokumenty,ofitslIni pubhkatsll,materialy. Book 3: 1949-1952 (Lviv,Litopys UPA,1994),pp116-136
(42) 1943年のウクライナ側のポーランド人虐殺に関しては, Slemaszko,Wladyslaw& Ewa Siemaszko,Ludobojstwo dokonane przez nacjoηalistow ukrainshch na ludnsci polskiej Wolynia 1939-1945 (Warszawa,Wydawmctwo vonborowiecky,2000),Piotrowski,Tadeusz,Genoctde and Rescue in Wolyn. Recollections of theUkγ'atntω1判叫 tio叫 αhstEthnicClea'叫 sz冗gCαmpatgnAgai叫 stthePolesDuγingWoγIdWaγ11(Jefferson,North Carolina& London,McFarland&Company,Inc.,Publishers,2000)を参照。一方,ウクライナ史研究でも,セルヒーチユクがウクライナ人とポーランド人の対立という視点からこの問題を扱っている。 (Serhuchuk,Volodymyr,Trahediia Volyni. Prychyny i perebih polski-ukrainskoho konfliku v roky druhoi svitovoi viiny,Kiev,Ukrainska Vydavnycha Spilka,2003)
(43) Serhuchuk,Volodymyr,Poliaky na Volyni roky druhoi svitovoi viiny. Dokumenty z ukrainskykh arkhiiviv i polski publikatsii (Kiev,Ukrainska Vydavnycha Spilka,1999)(以下 ,Poliaki na Volyniと略), p289
(44) Litopys UPA,vol.24,P235
(45) Poliaki na Volyni., p.352
(46) Luopys UPA,vol.24,p.52
(47) Ibtd.,p,196
(48) Shtendera,le&P.PotlChnYJ(eds.),Luopys UPA Vol,2. Bolyni Policcia. Nunetska okkupantsiia Book 2. Bolobidii UPA 3rd ed. (Toronto,LitopysUPA,1990),p.56
(49) Snyder,TIlnothy,The Reconstruction of Nations • Poland,Ukraine,Lithuania,Belarus,1569-1999 (NewHaven & London,Yale University Press,2003),p.167
(50) lbid.,p165
(51) Sokhan,P.&P.Potichnyj(eds.) litopys UPA New series vol.1 Vydannia Holovnogo Komanduvannia UPA (Kiev&Toronto,LitopysUPA,1995),pp.7-8
(52) Piotrowski op. cit.,p180
(53) "OUN i UPA u druhiu svitovii viini,"Ukrainskyi istorychnyi zhurnaI,No.1 (1995), p.l07
(54) Piotrowski,op.cit.,p183
(55) Snyder,op.cU.,p.169
(56) Siemaszko,Wladyslaw& EwaSiemaszko,LudoboJstwo dokonane przez nacjonalistdow ukrainskich na ludnosci polskiej Wolinia 1939-1945 (Warszawa,Wydawnictwo vonborowiecky,2000),p.1056
(57) OUN-UPA,p.68
(58) Poliaky na Volyni,p.215
(59) 大戦期のウクライナ人とポーランド人との間の武力紛争に関しては、Motyka, Grzegorz, Tak było w Bieszaczadach: Walki polsko-ukraińskie 1943-1948 (Warszawa, Volumen, 1999), Torzecki, Ryszard, Polacy i Kwestia ukraińcy: Sprawa ukraińska w czasie II wojny światowej na terenie II Rzeczypospolitej (Warszawa, PWN, 1993)を参照。また、ウクライナ史研究でも、ポーランド側の資料に依拠して、この問題 に関する研究が進められている。(Il'iushyn, I I., OUN-UPA i ukrains'ke pytannia v roky druhoi svitovoi viiny (v svitli pol's'kykh dokumentiv), Kiev, Instytut istorii Ukrainy NAN Ukrainy, 1996)(60) OUN-UPA, p.316 OUNバンデラ派とUPAの論者の中には、ウクライナ人の居住地域の少数民族をウクライ ナ国家建設の闘争に取り込む戦略を提案する者もいた。(Litopys UPA, vol. 24, p.111)




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