カルテ16:絶望すら無価値にせよ

前に自分は「この世界は剥き出しの状態だと、無意義の集まりだ」みたいなこと言った(もしかしたら違う言葉かも)と思いますが、そこにある種の価値を見てる面があるのは一種の矛盾じゃないかと思います。
最近だと物語の作劇上で「負のご都合主義」という言葉があるので、その方面の比喩を用いた方が実像として近くなるかもしれません。

この世が無意義というなら、その無意義さすらも特権性があるわけもなく、無意義さを優位性を与えるのは撞着語法的なものではなく、真の無意義さから無意識に覆いを被せる防衛本能的なのかなという可能性が浮かんできます。

もしかしたらこう燻ってるからには世界の無意義さに価値がないと埋め合わせにならないなどと思ってるの故なのかも。

となれば自分は本当はニヒリズムだのペシミズムだのとは似てるが非なる人間ということになってしまわないだろうかと。

ちょっと気になってるエミール・シオランという哲学者が「いつでも自分の手で命を絶てるという希望がなければ私は生きてなかっただろう」というのが理屈としてはわかっても心で理解できてない節がありまして、ちょくちょく「自分って思ったより普通よりになってしまうのか」と疑念が首をもたげることがありました。

以上がが全ての証左になるとは思いませんけど、自分の中に自分でも気付かない落伍者として失格な落伍者があるというのはなかなか自分を保つ上で都合が悪く思っちゃいますね。

ダンテの神曲の「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」というのがありますが、本当に一切の希望を捨てられた状態というのは絶望に対して慰みを得ることさえできないということなのかも。
先の埋め合わせの件であれば、埋め合わせが来るかは気まぐれと思えということですかね。

要は苦しみの有り様としても不純物が混ざってる感じなんですよね、忌々しいことに。
でもだからといって好きなことを僅かでさえもできない状態なのもごめん被りたいから難しいところですよねぇ。
そんでもって多分なるべく純化された落伍者としての言葉を紡いでいくことでしか前に進めなさそうなのも困り者。
こんなところで一長一短なものが現前しないでほしい。

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