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グレーゾーン

私という人

 私の名前は灰谷 考子(はいたに  こうこ)。音楽やTVが大好きな大学三年生。いつもストレス発散はカラオケとドラマだ。ただ、ストレス発散をどれだけしても消えない将来への不安感。将来のことについて悩むだけならまだ耐えられた。私の本当の悩みは心の中にある。いや、どこにあるか定かではない。

新しい私の始まり

 次女に生まれた私は、姉の真似ばかりする活発で明るい少女であった。小学4年生、5年生ではクラスのお楽しみ会でみんなの前でモノマネをするくらいだった。みんなを楽しませることが好きだった。5年生までは…  
 ブラックな私が始まったのは、小学6年生の頃。私は初めて「説教」というものを体験した。先生に怒られたのは初めてだった。先生は言った。
「言いたいことがあるなら言いなさい」と。
私はその先生が大の苦手だったため、顔に全て出てしまっていた。私も言い返す。
「スー子ちゃんに無理矢理給食を食べさせていたから可哀想だった」と。スー子ちゃんは私の幼稚園からの幼馴染、食村 吸子(しょくむらすうこ)。 幼馴染が嫌な気持ちになっているのに、放っておけるはずがない。
先生も負けずと言い返す。
「先生は、スー子ちゃんのためを思ってね」
私は唖然とした。先生でも言い訳をするんだ、と。
反撃はまだ続く。
「じゃあ先生も言わせてもらうけど、社会の授業中、話し合いの時間が短いとか言わないでくれる?」
こんなに小さなことを根に持っていたなんて…子どもなのはどちらだろうか。
私は初めて怒られたことにより、涙が溢れてきてしまった。ここで最後にトドメを刺した。先生は言った。
「先生は、考子ちゃんが泣いてくれて嬉しい」と。先生のために泣いたわけではない。
春の暖かい日だったが、寒気がした。
 そんな私をずっと廊下で待ってくれていた友達。私のランドセルを持って、一緒に帰るその時まで文句も言わず待っていてくれたのだ。それにも関わらず、私は涙を見られるのが恥ずかしくて、なかなか友達の前に顔を出すことができなかった。時間をかけて涙を乾かし、顔を赤らめながら下校した。
 翌日、私は笑い方を忘れていた。友達と話していても心の奥に黒い塊のようなものを抱えていて、まるで自分の心を無くしたかのように。その日から本来の私を思い出せないまま時が過ぎていった。

中学生

 ついに私は中学生になった。またここで問題が起きてしまう。私が通っていた青中学校は青一小と青ニ小、二つの小学校に挟まれていて、二つの小学校から同じ青中学校に進学するのだ。私はニ小であった。小学生の頃から、一小はニ小が嫌い、ニ小は一小が嫌い、という風潮があったのだ。もちろん、根拠など無かったのだが。私はそれが根付いてしまっていたため、中学生になって、誰とも話すことが出来なくなった。話せるのは同じ小学校の仲が良かった友達だけ。せっかく話しかけてくれる子がいても、敬語で話したり、会話が広がらず、結局みんな私から離れていってしまった。いわゆる、人見知り、コミュ障になってしまったのだ。私は、友達が出来ないのなら、一人で行動しようと心に決めた。

部活動

 最初に私を苦しめたのは部活動だった。スポーツは好きだったため、何かしら運動部に入ろうと思っていた。かっこいいものに興味を持ち始めていた私は、剣道部に興味を持った。もちろん、一緒に行く友達もいないため、一人で見学へ行った。
 見学に行くと、一学年上の女の先輩がまさかの一人だけだった。ニ学年上の女の先輩はたくさんいたが、私はチャンスだと思った。剣道の団体戦は七人(うち二人は補欠)。絶対にレギュラーになれる。しかも先輩は一人。私も一人。絶対に私の居場所になる。そう確信した。しかし、見学に来ていたのは私だけではない。みんな友達同士で見学に来ていて、私は不安を感じた。
 いざ、仮入部期間。私以外に四人の女の子がいた。四人とも同じ小学校だったが、そこまで仲良くなかった。それに対して、四人は二人ずつ仲が良いようだった。私はまだ話したこともないのに仲良くなれないと決めつけた。最初の何日かは空気を乱さないように五人で一緒に帰宅した。しかし私は一人で帰りたくて仕方なかった。なぜなら、話も合わないし、歩くのも遅いし、部活動で疲れていた私はその空間が窮屈で、すぐに帰りたかったからだ。
 翌日から私は一人で帰ることにした。部活動で一番に着替えを済ませ、一番に道場を出て、追いつかれないように早歩きで下校した。自分でも、嫌な態度をとっていることはわかっていた。でも、一人にならないと苦しかった。
 帰宅すると、私はワガママになっていた。今日学校で起きたことを母に話しているうちに、私には友達がいない、出来ない、と泣き始めたのだ。自ら友達と離れる行動をとっていたのにも関わらず、友達がいないと弱音を吐くなんて。ワガママにも程がある。私はみんなもどうせ私なんかと仲良くなりたいなんて思っていない、と被害妄想ばかりしていた。実際にみんなの口から聞いたわけでもないのに。
 あっという間に一年が過ぎた。私は一年前一人で下校していたはずなのに、気がつけば五人は朝も一緒、帰りも一緒、喉の水分がなくなるまで話し続けていた。いつ仲良くなったのだろう。自分達も思い出せないほど自然だった。部活動は私にとって欠かせない過去となった。

大学生

 高校生はまた剣道部に入って、中学生の頃よりは新しい友達に馴染めるようになった。心を開くまでには一年以上はかかってしまうけど。高校三年間もあっという間に終わり、大学生になった。大人へ近づける大学生。ワクワクとドキドキが降り続けた。
 大学の入学式。また極度の人見知りが発症した。後ろの席の子がとても明るく、話しかけてくれた。しかし私は敬語で話すことしか出来なかった。また、友達を失った。次は隣の席の子が話しかけてくれた。見知人子(みち ひとこ)。その子も人見知りだと言う。意気投合し、帰りも一緒に帰った。
 次の日、私達二人のもとに明るくコミュニケーション能力の高い子が現れた。明元 明子(めいげん あきこ)。自然と三人でいることになった。あっという間にLINEグループを作ってくれて、楽しい大学生活の始まりだと思っていた…
 人子は大学近くに住んでいて、明子は大学近くで一人暮らし。私は大学の隣の県。私だけすぐに会える距離ではなかった。気がつけば、私以外の人子と明子が遊んでいたのだ。そういうこともあると心に言い聞かせたが、誘ってくれなかったことにショックを受けた。気を遣って人子は今度遊びに行こうね、と連絡をくれたが、それ以降遊びの誘いが来ることは無かった。私は三人でいることが辛かった。
 そんなある日、授業に遅刻した私は、教室に着くと何やら複数人が教室に入ることができず、外で立ち尽くしていた。すると、私に一人の女の子が話しかけてきた。気村 強子(きむら きょうこ)。どうやら同じクラスの女の子であったようだ。教室は人数オーバーで座ることができず、広い教室へと移った。そこで強子と一緒に授業を受けた。私は迷った。これまで一緒にいた人子と明子と今後も一緒にいるのか。でも強子の方が気が合って話しやすい。
 数週間後、私は何も言わずに強子と授業を受けるようになった。いつも一緒にいてくれて、嬉しかった。

友の椅子取りゲーム

 強子と一緒にいられたのもわずか一年程であった。私に新しい友達、仕事 大子(しごと だいこ)ができ、その子と仲の良い、遅村 愛(ちむら あい)、怖山 真子(こわやま まこ)もやって来た。私達合わせて五人。五人で一緒にいるようになったが、どうやら強子と愛が意気投合したようだ。私から強子が離れて行ってしまった。二人は旅行に行ったり、遊びに行ったりしょっちゅうだった。強子は私といた時は、毎回早く帰りたいと言って遊んでくれなかったのに。
 さらに、真子は思っていることを全部口と顔に出してしまう子で、私に何回も怖い顔を見せた。学校に行くことが辛くなった。大子はとても優しくて、私と一緒にいてくれた。しかし、課外活動が好きすぎるあまり、友達というよりも、仕事仲間のような感覚だった。マイペースで常に一緒にいてくれるわけでもない。学校がつまらなくなった。まるで椅子取りゲームのように、空いた友達にしがみつくことしかできない。

てんかん

 学科の子は上手くいかなかったものの、私は剣道同好会に入って他学科の剣道仲間と仲良くなった。私は本当に嬉しかった。たくさん遊びに誘ってくれて、時にはカラオケオール。大学生を満喫していてずっと同好会の友達と一緒にいたいと思った。しかし、また悲劇が起こった。
 私は大学生になって学童のアルバイトを始めた。学校の近くで応募したが、夏休みの間は家の近くの学童でアルバイトした。ここの施設ではたった一ヶ月。あと残り数日の終盤の頃だった。私が目を覚ますと救急隊員の方が私の名前を呼んでいた。私は何が起きたのか、全くわからなかった。その時、人生で初めて救急車に乗り、病院へ運ばれた。運ばれる途中は、激しい吐き気に襲われた。病院に着くと、点滴をし、何事もなかったかのように通常の私に戻った。その日はそのまま帰宅した。帰宅して家族に聞くと、私は倒れて痙攣を起こしていたと言う。記憶がなくなっていたのだとその時気がついた。次の日には、足が筋肉痛になっていた。突然すぎる悲劇。まだ実感は無かった。数日後、病院へ行き、検査日を決めた。数週間後、脳、心臓、MRI。様々な検査をした。検査結果はまさかの一ヶ月後。不安でたまらなくなると思ったが、意外にも不安は無かった。まさか自分に病気なんてあるはずがないと思っていたから。しかし、私は中学生の時に腰を怪我したことが頭をよぎった。ただ腰が痛くて何もあるはずがないと病院へ行った。すると、腰椎分離症と診断された。それは、半年間運動禁止というものだった。当時中学三年生。引退試合を控えた私にとって半年間の運動禁止は絶望そのものだった。
 今回も、腰の時のように、まさかの事態が起きるのではないか。そこで初めて不安を覚えた。
 一ヶ月後。待ちに待った検査結果の日。お医者さんは言った、
「心臓は問題ないですね〜、脳が、この脳波が異常です。この脳波はてんかん患者さんの特徴なんです」
あまりにもさらっとした答えに時が止まった。原因不明の病気、
「てんかん」
母も受け入れることができない表情だった。私の場合は、全般発作。脳の電気が異常に興奮して起こる。痙攣を起こして記憶をなくす。私の場合はこんな症状だが、人によって様々な症状があるらしい。薬で発作を抑えることができれば、日常生活には問題ないと言う。しかし、二年間の車の運転は禁止されてしまった。私は車の運転が大好きで、将来夢に見た田舎暮らしが遠のいてしまった。薬は副作用を伴った。異常な眠気、気分が下がりやすい、頭痛。薬の副作用なのか、てんかんの影響なのかは私にもよくわからなかった。てんかんによって、学校も休みがちになり、友達の遊びのお誘いも断ってばかりいた。せっかく仲良くなれた同好会の友達。失いたくはなかった。

てんかんのせい?

 私はもともと考え過ぎたりネガティブな性格である。てんかんになってからそれが悪化したのだ。外にも出たくないし、誰にも会いたくない。心配して欲しいわけでもなくて、放っておいて欲しい。みんなの優しさが私にとっては必要のないものだった。人と関わることに疲れる。だったら一人でいたい。中学生時代の私に戻ってしまった。
 すると次第に考え過ぎて、ネガティブなのはてんかんのせいだと思うようになった。なぜ私はこんな性格で、人とうまく関わることができないのか。ずっと悩み続けてきた。それはてんかんのせいだ。私はそう思わずにはいられなかった。

HSP

  HSPを知っているだろうか。私は性格診断をしてみた時に、HSPと書かれていた。HSPとは、神経が細やかで感受性が強い性質を生まれ持った人のこと。初めて、私の納得できるものが見つかったと思った。しかし、HSPは病気ではない。つまりそれは私の性格なんだと思った。そう考えると自分で変えることができるはずだ。でも今まで直そうと努力しても変わることはなかった。最近は、発達障害や、うつ病、様々な病気が発見されてきた。診断名がつけば、納得するし、周りも配慮してくれる。診断名のないHSPはとても生きづらいものであった。

グレーゾーン

 グレーゾーン。便利な言葉が生まれたものだ。病気か否か定めることが難しい間の人々がグレーゾーンだ。私は自分はグレーゾーンだと思う。友達と話していても、他の人と違うと実感するし、自分を追い込むことが多いからだ。HSPもグレーゾーンの一つだ。病気ではないが、生きづらい性質を持つ。周りの人は病気だとわかると配慮する。だが、病気でもないのに上手く出来ないことがあると怒ったり責めたりする。アルバイトでも仕事ができないと陰で言われている人がいた。仕事ができないことも、グレーゾーンなのかもしれないと私は思う。グレーゾーンの人は、行動や言動などもグレーゾーンになりかねないと私は思っている。例えば私はグレーゾーンで、人とうまく関わることができない。その結果、人との関係もグレーゾーンになってしまうのだ。グレーゾーンがグレーゾーンを引き起こし、そのグレーゾーンが自身を、他人を傷つける。グレーゾーンを受け入れる世界。甘い世界になってしまうかもしれない。何もかも受け入れれば良いということではないが、生きていくことに必死で抵抗する人々が増えるのならば、甘い世界も悪くない。

まとめ

 世の中には同じ人は存在しないのだから、人のグループ分けなんかできない。それでも、病気などは人をグループ分けする。体験しないと本人の気持ちなどわからない。それは仕方のないこと。理解しようとしても不可能なのだ。だから理解しようとするのではなく、知ること。知ることが個性を理解することになる。グレーゾーン。本当はみんなグレーゾーン。同じ人間ではないのだから。


お読みいただき、ありがとうございます。遠くの人まで伝わりますように。


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