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おかねと自由

これまで生きてきた50年と少しの間には、何度「夢」や「目標」について考えてきたかわからない。正直言って、もう腐るほど聞いている。そして何度目標設定してきても、達成できることがまずない。ある程度は頑張るんだけど、そこから先が続かなくて、いまいち何者にもなれていないまま、こういう年になってしまった。

でも考えれば、結婚して子どもに恵まれて、十分幸せなのかもしれないなと思うし、わりとやりたいと思う仕事もできているから、肩書などはなくてもそれで充分でしょうと言われそう。余裕はそんなにないけど、人からみて特別困っている暮らしというほどでもない。

けれどもどうも納得しきれていないような気がしてならない。何か釈然としない思いがいつもあるような気している。なぜかといえば、ひとりだちできるだけ稼げてないからだ。ぶっちゃけるとそれに尽きる。

ベタというか、下世話というか、がめついというか、そういう話だが、本当に思うのはこれだ。なぜかといえば、自分で十分に稼げるようになれば、自分自身が自由になれる気がするからだと思う。

自分自身に十分な稼ぎがあれば、我慢することが減るはずだ。どうしても、夫の稼ぎが主になっているから、その分、家のことなどのいわゆる「めんどくさい」ことは私が引き受けざるを得なくなる。もし「めんどくさいからもうやらない」と言っても「主な稼ぎが夫さんなんだから、役割としては奥さんが他の家のこととかするの当然でしょ」って言われるだろう。

わかるよ、わかる。理屈はわかる。自分ももし、そういう人を見たら、え、でも当たり前じゃないと思うかもしれない。でも、いままでそう思ってきたけど、だんだん時代の流れもあるからか、「稼ぎが少ないからってなんでも我慢して面倒なことやりつづけなきゃいけないのも、なんか違う」と言いたくなってきてなんだか悔しくてならない気持ちがお腹の底にたまってるような感じがある。

けど、誰のせいでもなく、自分がそうしなきゃならないと思い込んで勝手にしんどく思ってるだけなんだろう。そして、誰に対して悔しがっているのかもよくわからない。自分の思い込みに対してなのか、これまでそういう意識をはぐくんできた時代や世相や育ちなのか…

話は少し飛んでしまうが、わたしの実家は一軒家で、お父さんが自分で事業をおこし、一生懸命働いてわりと広い家を建てた。お父さんの実家は決して裕福ではなかったそうなので(そういう時代だったともお父さんは言っていた)、自分で稼いで十分な家を建て、お父さん自身もきっと嬉しかったと思う。

立派な家を建てたのはいいんだけど、バブルの時代に建てたその家は3階たてで階段がある。寝室やベランダが3階で、リビングが2階、お風呂が1階。洗濯は1階でして、干すのが3階。家事をするお母さんは結構大変そうで、わたしが住むマンションは狭いけど、掃除も「すぐ済む」から「めちゃラク」だという。わたしは実家に帰ったとき、その階段の上り下りが面倒でしかたない。頑張らないといけない家、っていうのがなんかしんどいのだ。

「お母さんたちもマンションに住んだら?らくやで~」と言ったことがあるが、「お父さんのうちやからそんな簡単には変わられへん」と、お母さんは言った。

お父さんが一生懸命建ててくれたのはわかるけど、「ラクなうちに住みたいな」と思ったら、そうできる自由がわたしはほしい。お母さんは別に実際にそれを望んでるわけではないかもしれないが、わたしは「お父さんの家やから」といって、あきらめる状況に、できればなりたくないなと思った。

お金を稼ぐには、なにかをしなければ状況は変わらない。いままでも色々な試行錯誤はしてきたつもりだが、結果はでていない。し、努力もできていない。欲しい欲しい。なりたいなりたい。と言ってるだけだ。そういう自分も嫌になったりする。だけどそれでもまだ言う。元気なうちになにかしら自分が満足できるように、稼げるようになりたい。

だから、わたしの夢は、自分で自分の好きな家、マンションでもいいんだけど、そんな自分だけがいいと思える家を買うこと。そして、夫と同じくらいの収入を得ることだ。そうしたら、何か言われても「え?稼ぎは一緒ですけど何か文句ある?」と言い返してみたい。

本当に正直すぎる、きれいさも感動もない夢で自分でもなんだかなあと思うnoteになった。でも本当に思ってることを書きました。やっぱり、なんといってもお金が欲しい。っていうか、まだまだもっと、自由が欲しいんだな、きっと。


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