『イエスさまの救い方』

おゆみ野キリスト教会牧師 近藤真史 師
 
はじめまして、おゆみ野ゴスペルクワイアーが活動をしているおゆみ野キリスト教会で牧師をしているマーシーと申します。クワイアーではベースを弾かせてもらっていて、現在38歳。3歳の娘に「パパのベンベンベン(ベースのこと)カッコいい!」と言われることに至福の喜びを感じています。
さて、今日はWhen I thing about the Lord の歌詞から神さまの恵みについて考えたいと思います。
特に注目したいのは”How He saved me”という部分です。「神さまが私をどのように救ってくださったかを考えるとき、私は叫ばずにはいられない、ハレルヤ!と。」という歌詞ですよね?なぜこの人は、ハレルヤ!と叫んでしまうのでしょうか。それは、神さまが私を救ってくださったというその救い方があまりにも素晴らしいからです。
それは、神であるイエス・キリストが私の心にある罪や弱さをすべて背負うという方法によってでした。旧約聖書イザヤ書53章6節にはこうあります。
しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
ここで「彼」と言われているイエスが、この私の醜い罪も咎もすべてを背負ってくださった。その結果、彼はどうなったでしょうか?罪人となってしまったのです。神ご自身であり、この地上で1つも罪を犯さず、人を愛することしかしなかったイエスが、神の目にはこのとき、「罪人」と映ったのです。罪人となったイエスを、父なる神はどうしたでしょうか?罪人として裁きました。
愛するひとり子のイエスであっても、彼が罪をもったとみなした結果、神は彼を裁かずにはいられませんでした。その出来事こそがイエスの十字架でした。それは罪人の「私」が受ける裁きのすべてを、イエスが受けてくださったという出来事でした。
 
「愛する者のためにいのちを投げ出す」物語に、私たちは心を打たれます。なるべくネタバレにならないように書きたいですが(それでも何も知りたくない方は、次の段落まで飛ばしてください)、映画アルマゲドンで、ブルース・ウィルス扮するヒロインの父親は、元々敵対もしていたあの人物のために、犠牲になることを選びます。「塔の上のラプンツェル」でラプンツェルの恋人ユージーンは、ラプンツェルの自由を守るために、自らを犠牲にするとても大胆な行動をした直後に、息を引き取ります。
 
神である方が、こんなにもちっぽけな「私」のいのちを救うために、人となり、十字架の上でいのちを投げ出してくださった。これよりも大きな愛が、これよりも大きな恵みがあるでしょうか。
イエスが、「私が受けるべき裁き」を受けてくださいましたから、これを信じる者への裁きはもう残されていません!私は、主なる神さまによって、両手を上げて迎え入れられるのです。天国の入り口で、私たちは父なる神さまのビッグハグを受けてから(ルカ15:20)、天国に入れられることでしょう。