『キリストも賛美を捧げて救いを成就されたのです』

清水ヶ丘教会牧師 中島 聡 師
 
マタイ福音書26:30
「一同は賛美の歌を歌ってから。オリーブ山に出かけた。」

イエス様が私たちに永遠の命を与えるためには、御自身の命を献げる必要がありました。御自身の命という代価によって、私たちの罪をすべて贖(あがな)い取るためです。そのためにイエス様は十字架に向かわれたのですが、直前の「最後の晩餐」において、「賛美の祈り」が捧げられました。そして、イエス様は弟子たちと最後の祈り(実際には弟子たちは眠り込んでしまい、イエス様お一人での祈りとなりました)を捧げるために「賛美の歌を歌ってから」ゲッセマネの園に向かわれたのです。
 
十字架、すなわち死を迎えることは、イエス様にとっても苦しみの極みでした。オリーブ山のふもと、ゲッセマネの園に着かれたイエス様は弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マタイ26:38)と言われたのです。イエス様は最初、「父よ、できることなら、この杯(十字架)をわたしから過ぎ去らせてください」と十字架からの回避を祈られました。神の御子がボロ布のように扱われ死ななければならないのですから当然の祈りと言えます。
 
しかし!イエス様は「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と、父なる神様にすべてをお委ねしますと祈られたのです。弟子たちは皆眠ってしまっていましたが、イエス様は三度、父なる神様にすべてをお委ねしますと祈られました。この祈りを捧げるところに向かうために、すなわち十字架に向かうために、イエス様が最後になされたこと、それが「賛美の歌を歌う」ことであったのです。賛美の歌がイエス様を後押ししている様が想起されます。
 
賛美は、喜びであり、笑顔あふれるものであり、「あぁ賛美できて幸せ~」という時が多いと思います。もちろんそれも賛美の大切な在り方です。しかしてまた、人生のどん底と思えるようなところにあって、自分のすべてを捧げなければならないという時にあっても、賛美は力となることを教えられます。
 
昨年10月に勃発したガザ地区における戦闘において失われた子どもの命が13800人を超えている、孤児になった子どもも19000人にのぼると国連児童基金(ユニセフ)が発表しました(’24.4.14)。世界には多くの悲しみ、苦しみが満ちています。私たちは、「隣人を自分のように愛しなさい」と聖書の真髄を説かれたイエス様の福音を宣べ伝えていかねばならないと強く示されます。賛美はイエス様の福音をそのままに証することができます。また言葉だけよりも賛美、ゴスペルが多くの人の心に届くことを私たちは知っています。今日も明日も、私たちは力の限りに主の福音を賛美して参りましょう。ハレルヤ!