『イエスの愛で満たされる』

おゆみ野キリスト教会牧師 近藤真史 師
 
前回のメッセージでは、When I thing about the Lord の”How He saved me”という歌詞の部分からイエス・キリストの恵みについて考えました。今回はその続きです。
主イエスが私のことをどのように救ってくださったのか、それは彼が私の罪を背負って死ぬ、という方法によってでした。
しかし、ここで疑問を持たれる方もおられるかもしれませんね。「教会に行くと、いつも罪、罪、言われてしまう。そんなに簡単に私のことを罪人にしないでくれ」と。
ここで、私の罪の告白をしなくてはいけません。私の罪の根っこは「私に注目して欲しい、もっと私を認めて欲しい。」という思いです。私は中学から高校にかけてバスケットボールをしていましたが、あるとき、チームのスターティングメンバーを外れてしまいました。それまで全く注目されていなかった安藤くんというチームメイトが急に力をつけてきて、僕の代わりにスタメンになったのです。そのとき、僕は安藤くんの上達を喜べたでしょうか?まったく喜べません。悔しいというか、心の中で彼を憎みました。「安藤さえいなければ!」と。
自分ではない誰かの存在を喜べない心を「罪の心」と言うのは厳しすぎるでしょうか?しかし、愛なる神さまの、その愛の基準に到達しない状態を聖書は罪だと語るのです。それは私たち人間の弱さでもありますね。
 
あの中学のときから、私はこの罪の傾向に悩まされ続けてきました。ベースを弾き始めれば、年下なのにずっと上手な人と自分を比べたり、教会で働くようになってからは、働きの機会が中々与えられないことに悩んだりしてきました。「もっと活躍したい、人から認められたい。」という思いを消すことができないのです。
この「満足することを知らない私の心」が、いつか自分をブラックホールのように飲み込んでしまうのではないか、という恐怖も抱きました。
この問題に対する解決はどこにあるでしょうか。新約聖書、エペソ人への手紙3章19節というところには次のように記されています。
 
「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」
 
この節は、人知をはるかに超えたイエスの愛を私が知ることができる!という約束です。そして、それをしるならどうなるのでしょうか?私たちは「神の満ちあふれる豊かさにまで」満たされるのです。
 
この満たしがあれば、私のあの問題は解決すると思うのです。人からの賞賛や自分の活躍がなかったとしても、イエス・キリストの愛によって深い満足を得られているなら、それ以上、私は何を望むでしょうか。
聖書の教え、すなわち福音は、実際にあなたの人生を作り変える神の力です。この神の愛に、あなたの心が満足を覚えることができるなら、あなたの人生には、いつだって深い喜びが伴います。
どうか、皆様のゴスペル・ライフを通して、イエスの愛を知ることができますように。聖書にある次の祈りを、皆様のために祈りたいと思います。
「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ人への手紙 3章18~19節)