障がいのある次男の誕生日に寄せて(2017.5.6のFBノート)

今日5月5日は次男将乃介の13歳の誕生日でした。GW中の「こどもの日」で、毎年祝日なので、いつもささやかに家族でお祝いするのですが、今年は私のGW中の行事が多く、長男も部活だなんだと忙しいこともあって別々です。

うちの次男は、知的障がいと自閉症を合わせ持つ、最重度の障がい児です。岐阜特別支援学校中学部の1年になりましたが、発語はなく、トイレなど身辺自立も覚つかず、字の意味もわからず、もちろん読めず、書けず、コミュニケーションが極めて取りづらい子どもです。色々と大変ですが、体は健康そのもので、感情的には安定しており、いつも笑顔でニコニコとしていて、パニックを起こしたりすることもないので、生活は比較的穏やかです。

ごくわずかずつですが、「ちょっとわかってきたよね」ということが増え、小さなことに喜んでいます。今は、私は離れて住んでいるので、妻に任せきりですが、時折、岐阜の自宅に帰ると、私を見て、「お父さん、帰ってきたんだ」みたいな顔をしているので、少しはわかっているんだろうと思っています。

障がいのある人と家族は、誰もそうだと思いますが、自分の力だけでは生活することが難しく、大勢の方々に助けられ、支えられて暮らしていることをいつも実感し、ただただ感謝しています。特別支援学校の先生方、同じ障がいのある子どもを持つ家族、心を寄せてくださる方々、そして障がい児者の支援に一生懸命尽くしてくださる方々など、多くの皆さんのおかげです。また、様々な支援体制を作られた多くの先人のご労苦のおかげでもあります。本当にありがたいことだと思います。

人生観と生き方が変わった

障がいのある子を持って13年、自分自身、人生観、生き方が大きく変わりました。今朝、Facebookで「過去のこの日」が出てきて、昨年、こんなことを書いていました。

「私はこの子に色々と教えてもらっています。障がい児者支援の分野へもこの子が導いてくれました。人の強みを見つけて伸ばすことの大切さもこの子が教えてくれました。この子の支援は多くの方々のお力に頼るばかりですが、親としてできることは、市長の仕事を通じて、同じような障がいのある方々や弱い立場の人たちを支援できる地域を作ることです。それが皆さんへのご恩返しであり、この子の価値を最大限に引き出してやることだと思っています。」

実際に、こうした思いで日々仕事をしていますが、色々ときっかけがありました。

うちの子は障がいがあるのではないかと気づき、県の発達支援センター「のぞみ」に相談に行ったのは、この子が2歳を過ぎた頃でした。県庁の幹部をされていた小児科医の先生に相談したところ、希望が丘学園に発達支援センターができたから、まずは相談して、それから先生の診察を受けなさいとアドバイスされました。2006年の春のことです。

「のぞみ」は当時、発足して半年が経った頃でしたが、問い合わせてみると、待機者がものすごく多く、相談を受けるだけに3ヶ月待ちという状況でした。そして、最初の相談の段階で、「おそらく自閉症という診断が出ると思います」と言われました。そこから、希望が丘学園の小児科医である西村悟子先生(のちに、自分が開設する寄附講座の先生になっていただくことになります)の診察を受け、最終的に「自閉症」という診断を受けました。それまでに、結局、半年近くを要しました。

我が子に障がいがあるのではと不安になっている親にとって、数ヶ月から半年という期間は途方もなく長い時間です。しかし、発達障がいの診察ができる医師の数が限られており、今でもすぐに診てもらえるという状況にないのは事実です。

私は、当時、県庁の総合政策課で県の総合計画にあたる岐阜県長期構想の策定を担当しており、政策立案の仕事をしていました。当然、当初予算で打ち出す政策協議にも加わっていました。この長い待機の状況があるという事実を体験した者として、これは政策としてなんとかしないといけないと思いました。

そこで秋の政策協議の際に、健康福祉部の人たちに、これを何とかする政策を打ち出せないものかと強く話をしました。全くの「公私混同」です。実際に、当時のある幹部から「都竹は政策協議の場で、自分の子どものことを持ち出して何だ」と批判されました。でも、これは正当な「公私混同」だと思いました。

しかし、このことをしっかり受け止めてくれる方がいました。当時の健康福祉部の政策企画チーフであった現・清流の国づくり推進部次長の尾鼻さん。当時の上手健康福祉部長(現副知事)に話をしてくれました。上手さんは、飛騨市の出身で長く親しくしていただき、直属の上司としてもお仕えした方ですが、その時に私を呼んで、「お前が人に言いにくいことを言って訴えるのはよほどのことだろう。とにかく何とかできないか調べてみる。」とおっしゃってくださいました。

そして、それを受けて、翌年度、平成19年度の当初予算に、各圏域の医療機関に発達障害専門外来を設置した場合に補助を出すことで、地域での診察を促進させようという「発達障害専門外来診療促進事業」として630万円余が盛り込まれました。

この子を世の光に

この経験はとてつもなく大きなことでした。それは、訴えたことが実現したという意味ではありません。「この予算はうちの子が取った予算だ」と思ったからです。実際に、次男が障がい児でなければ、私は障がいの世界に触れることはなかったかもしれません。事実、当時の私は障がい支援の分野に十分なイメージを持てずにいました。当然、こんなことを政策協議の場で持ち出すこともなかったと思います。

でも、次男のおかげで、世のためになる予算がついたのです。こうして自分が頑張ることで、喜んでくれる人、助かる人が出てくる。そうすれば、うちの次男がこの世に生まれてきた価値が引き出される、障がいがある子でも、世のため、人のためになれるんだと思いました。

これが私の基点になりました。親として、障がいがあっても可愛い我が子を育てるのは当然のことですが、同時に、この子を通じて自分が知ったこと、感じたことを、公務員という立場で、政策にし、多くの人たちが救われるようにしていくことが、障がい児の親になった自分自身の使命だと思うようになっていきました。

そして、商工政策課勤務がそろそろ終わりという2012年の中盤ごろから、知事や上司に「次は福祉の仕事がしたい。できれば障がい分野がいい」とお願いしていました。この希望を叶えてもらい、希望が丘学園と県総合医療センター障がい児病棟の整備を行う「総合療育推進室」の室長になりました。

ここでの経験も私の人生をさらに大きく変えるものでした。重症心身障がいという分野に深く関わるようになり、発達障がいも含めて、直接仕事をする中で、多くの子どもたちや家族の方々と触れるようになり、また、医療と介護、福祉、教育という全体を見ることを学びました。何よりも、障がいの分野はまだまだやるべきことがものすごく多く、産業支援や地域おこしの分野などに比べると、大きく立ち遅れていることを実感しました。

しかも、首長の判断一つで大きく動かせる部分も多いことも知りました。つまり、やるかやらないかだけなのが、障がい児者支援の分野だと思いました。今、市長として取り組んでいることは、まさしくその実践です。

滋賀県の重症心身障害児者支援施設であるびわこ学園の創始者・糸賀一男先生は「この子らを世の光に」という名言を残しておられます。次男の顔を見るたびに、「この子を世の光に」するんだと思いながら仕事をしています。

弱い人の立場に立つ

もう一つ、次男から教えられたことが、「弱い人の立場に立つ」ことでした。私は、子どもの頃からスポーツ、体育が大の苦手で、中学校の頃から、得意なことを頑張っていこうと思って過ごしてきました。逆に、弱さということはかなり意識をしながら生きてきました。

ところが、大学生になって以降、だんだんとそうした意識が薄らぎ、誰でも努力をしさえすれば一定の水準になれるんだ、一定の水準に達しない者は努力が足らないんだと思うようになっていました。

そのために、特に知事秘書の頃には、細かいミスや遅い仕事があると怒鳴ったり、激しい叱責をしたりするようになっていました。当時の知事秘書は徒弟制度のようで、代々似たようなところはありましたが、今思うと、自分自身が完全に「強い立場」に身を置き、「弱い立場」の人を見下ろすようになっていたような気がします。

しかし、次男の障がいがわかってから、考え方が変わってきました。何しろ、次男は同じ年の子と比べて、圧倒的にできないことばかりなわけです。だんだんとその差が顕著になっていきます。しかも、それは努力すれば改善されるということでない。終生、人さまのお世話に頼らないと生きてはいけない。生まれながらにして「弱い立場」であるわけです。

さらに、その「弱い立場」は違う世界にあるものではなく、誰もが同じ地平の中で常に隣り合わせにあるものだと思うようになりました。実際に、自分自身も次男が障がいがあるとわかるまで、障がいの世界はどこか遠いところのことのように思っていました。でも、ある時を境に弱い立場になりました。

出生時のトラブルで障がいを持った子どもの家族もそうです。産まれる直前まで、誰もそんなことは考えていない。でも、ある時、突然弱い立場になる。つまり、誰もが隣り合わせなんです。だから、人は決して「強い立場」になりきってはいけない、と思うんです。

そうすると、色々と見えるようになってきました。例えば、貧困。自らの責めによらずして、ある日病気で倒れて、あるいは不慮の事故にあって、十分な仕事ができなくなり、厳しい経済状態になるケースはいくらでもあります。高齢になって、年金だけの生活で暖房も切り詰めるようにしておられる人も多くおられます。しかも、それは、自分自身も含めて、誰もがなりうることです。だから誰にとっても自分の問題です。

それゆえに、行政においての最優先事項でなければならない。そう思って、私自身が執筆した岐阜県長期構想には、「取り組むべき政策と優先順位の考え方」として、優先順位の一番に、「自らの力で暮らしていくことが困難な立場にある人たちを支援すること」と書きました。これは飛騨市の市政運営においても同じです。難しい問題ばかりです。簡単に答えも解決策も見つかりません。でも、役所が最優先でやるべき事項だと信じています。

強みを見つけて伸ばす

その延長で、さらに教えられたことが、「人の強みを見つけて伸ばす」ことでした。同じ世代の子どもたちと同じことが全くできない子を持っていると、親としては、ごくごくわずかでも、できないことができるようになる、わからないことがわかるようになることがうれしくて仕方がありません。だから、毎日、ちょっとでもいいところはないか、強みはないか、いい変化はないかと見続けるようになります。

ここ数年でもそうです。小学校の高学年なのに、介護用の箸が持てるようになったといっては喜び、たまたまかもしれないが、自分でトイレに行ったといっては喜び、パズルを仕上げるのが早いといっては何かに活かせないものかと喜びと、そんな日々です。

こういう生活を送っているうちに、仕事の上でも同じような考え方をするようになりました。クセみたいなものです。

ちょうど、課長補佐になって、部下を持つようになった頃で、「こいつのいいところはどこだろう。この部分はすごいなあ。」などといった目で毎日見ていると、一見、仕事のペースが遅い職員でも、とんでもなくすごいところがあったり、ぐんと成長したりするのがよくわかり、しかもそれが楽しいと感じるようになりました。

そんなことを思うようになった頃、楽天との連携事業をきっかけに、楽天大学学長の仲山進也さんに出会います。仲山さんは、私が最も強く影響を受けた人物の一人で、大切な友人ですが、まさしく「強みを伸ばす」という考えを理論的に体系化し、さらにチーム作りにまで高めた考え方をされます。そして、自分自身、組織運営の中で、それを試行錯誤して実現していこうとするようになりました。市長になって、職員一人ひとりの強みを伸ばせる市役所にすることを目標にしています。

今年も思いを新たに

毎年、次男の誕生日が来るたびに、思いを新たにします。飛騨市でも今、自治体初の児童精神科クリニックの開設、療育体制の整備、グループホームの設置、日中一時支援事業所施設の整備、発達支援センターの強化、バリアフリーのまちづくりなど、いろいろなことを始めようとしています。一朝一夕にできる分野ではありませんが、とにかく一歩でも二歩でも前進させたいと思っています。強い思いを持って向かえば、必ず協力してくれる方が現れる。一緒にやろうという人が出てきてくださる。市民の皆さんにも理解してもらえる。そんな思いでいます。

それは、誤解を恐れずに言えば、自分の子の存在が世の人のためになってほしいためです。飛騨市が障がいのある人、弱い立場の人に優しいまちだと言われる日が来るとすれば、結果的にはうちの次男がそれを作ったということになるだろうと。そして、うちの子がこの世に生まれてきた価値を最大限に引き出すことになる。それは私たち家族を助けていただいている方々への恩返しでもあります。これが市長という仕事をさせてもらっている私自身の、親としての役目だと思っています。

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