親の仕事(2011.4.12のFBノート)

2月に亡くなった同期の友人を偲ぶ同期会があった。早いもので49日になり、法要が行われたことを機に開催された。会の席上で、ご自宅へ奥さんを訪ねた友人の話を聞いた。お参りに行った方がよいものなのかどうか、みんなで思案していたのだが、奥さんはぜひお参りにきてほしいと言っているという。彼には小学校6年生の男の子が一人いたのだが、奥さん曰く、「お父さんがどんなにすごい人だったかを職場の友人の方々から話してあげてほしい」とのことだった。

お父さんを尊敬していてほしい、お父さんのようになりたいと思ってほしいという一人息子に対する奥さんの思いと、亡くなった友人に対する尊敬と愛情を感じ、彼の家族がどんなに素晴らしい家族だったか、それだけに悲しみもいかばかりかと思うと同時に、その話を聞いて、自分の働く姿を子どもに見せることの意味について考えさせられた。

私は言うまでもなくサラリーマンである。朝出勤し、夜比較的遅い時間に帰る毎日であるが、職場の姿を子どもに見せることはほとんどない。そのことが本当にいいことなのかどうか、今までも何度か思いをいたしたことがあった。自営の家庭に育った私自身とは全く異なるからである。

私の家は飛騨古川の自転車店である。商店街にある店舗兼住宅なので、当然、家が父親の仕事場である。学校から帰っても、休日でもいつも父親は家にいて仕事をし、接客をしていた。「働く」ことと共にある暮らしであったといってもよい。自転車やオートバイを修理に来る人、子どもの自転車を求めてくる家族連れ、ふらっと遊びに来る町の人たちなどが常に出入りする家の中で、働き、お金を稼ぐことを何となく肌で感じていたような気がする。

おまけに、私の両親は小遣いという制度を作っていなかった。その代わりに店の金庫から好きに持って行けという方針であった。一見、子どもはカネを使い放題のように思うが、金庫を開けるということは店の商売の状態がそのままわかるということにも直結していた。

春先に自転車が売れる時期になれば、金庫にはそれなりのお金があり、その時は少し小遣いを多めに使い、雪に閉ざされる冬のようにお客さんがほとんど来ず、金庫に千円札が数枚しかないような時は、小遣いは使ったことがない。そんな中で、地元の取引先の銀行から「手形が落ちる日なので入金を」などという電話を取った日には、子どもながらに心配で夜も寝られなかった。

しかし、そんなに「働く」現場に近かったのに親の仕事は見えてなかったのだなあと思う経験をしたのが就職して2年目のことだ。初任地が高山の総合庁舎であった私は、当時、実家から通っていたのだが、その年の冬、父が仕事中に、スノーモービルを足の上に落とす事故があって、自力で車を運転できなくなり、週末や夕方になると父を車に乗せて出張修理に連れて行った。

オートバイのタイヤをスノータイヤに替えるような仕事なのだが、行ってみると、たいていオートバイは納屋などに置いてある。店とは違ってストーブもない。屋外の寒いところで、父は一人で黙々とタイヤを替えていた。その姿を見て、たまらず泣けてきた。親父はこういうところでコツコツ仕事をし、1件千円とかいう仕事を積み重ねながら、自分たちを育て、大学まで出してくれたのだ。このときほど、父親に感謝し、また父親を誇りに思ったことはない。

そう思うと、自分は子どもたちにどこまで働く姿が見せられているのだろうと考えることがある。少なくとも、子どもが普段県庁に来ることはない。来たとしても、デスクワークをし、会議をして議論している姿からどのように子どもに働く姿が伝わるのか、想像がつきにくい。時折、子どもと話をしているときに、自分がどんな仕事をしているのかを子どもに話すことがあるが、どこまで伝わっているかは心許ない。自分の子どもに働く姿を結局見せられないのではないかと、そんなことを思ってきた。

そんな折に、今年の2月頃だったか、子どもが、親の仕事についてインタビューしてくるという宿題をもらってきた。週末にいろいろと話をしてやって、日曜日の夜に完成したレポートを見たら、「お父さんの仕事は大変そうだと思っていたけど、思ったより楽しそうで意外でした」と書いてあった。正直、ちょっとうれしかった。その時に、自分の働いている姿を直接見せられることはなくても、夢中に楽しんで働いていれば子どもに伝わるのかなとも思った。

よく考えてみると、どんな仕事でも、結局は人を幸せにすることが目的なんだと思う。内容は千差万別でも、世の中の人たちに喜んでもらえるように、うれしいと思ってもらえるように仕事をするという要素が必ずある。

自分が子どもの頃に家で見ていたのは、新しい自転車を買ってうれしそうに帰っていくお客さんや、パンクした自転車を直してもらい、ほっとした顔をして帰って行くお客さんの顔だったような気がする。そして、厳しい思いもしながら、それを提供している父親は今も確かに楽しそうである。

サラリーマン比率が高まり、職場が家庭から離れているのが通常になっている現代の状況は、自分が育った環境に比べれば、確かに子どもに働く姿は見せにくい。しかし、働くことの本質は何も変わってはいない。人に喜んでもらおうと思って働き、それをうれしいと思って楽しんで仕事ができれば、朝仕事に出かけ、夜帰ってくる姿を通じてでも、「親の仕事」は子どもに伝えられる。最近、そんなことを思っている。

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