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梶原拓前知事を悼む(2017.8.30のFBノート)

梶原拓前知事が亡くなられた。ただただ寂しく、悲しいの一言である。

梶原さんには、県職員時代、1999年4月から2005年2月までの5年10ヶ月、秘書として直接近くでお仕えした。県庁でのこと、出張先、車の中、知事公舎でのこと、思い返すと、様々な場面が走馬灯のように蘇る。

常に全力で、いつも岐阜県のことを考え続けておられた。手抜きもなければ、妥協もなかった。60代後半とは思えないほどのエネルギーで仕事をされた。何より、とにかくよく勉強される方だった。東京へ出張すると、本屋へ立ち寄っては、本を買い込み、自宅で夜遅くまで読んでおられた。

人にもよく会われた。東京でも大阪でも、この人に会いたいというところにはすぐに出かけられた。色々なヒントを得ようとされていたのだろう。そして、現場に行くことを大事にされていた。どんなところにも気軽に顔を出し、特に女性の方々に冗談を言っては笑わせた。

県内各地の視察日程を組むように指示されたことは数え切れない。県庁での日程が多くなって、現場訪問が少なくなると、戦略的な日程を立てろと、よく叱られた。

そうした積み重ねの上で、県政のあらゆる分野で、自分はこうしたいという理想を明確に持っておられた。しかも、政策の細部に至るまでである。知事車の中で、ここはこうあるべきだということをよく語られ、私自身、とてつもない勉強になった。

一見奇抜に見えるアイディアも、梶原さんと一緒にいると、どうしてこういうアイディアが出るのかがわかる時があった。ご自身も「よくアイディア知事と呼ばれるが、思いつきではないんや。ずっと考えとると、色々なことが磁石みたいに吸い付いてきて、こうすればいいとひらめくんや。」とおっしゃっていた。

仕事には厳しく、自分の理想に合わない、あるいは水準に達していないという企画や文書などは容赦なく叱り飛ばされた。その代わり、いい仕上がりの仕事はしっかりと褒められた。

秘書としての仕事も同じだった。「秘書は自分が知事だと思って、どうすればいいか考えるものだ」。こう言って、知事の考えを先読みしろと、いつも叱られた。当時まだ30代前半だった私は毎日必死だった。しかし、仕事はしっかり見ていてくださり、きちんと評価してくださった。叱られても、この人のために仕事をしようと思ったのは、そのメリハリが効いていたからだと思う。

人への気配りに気を遣われる方でもあった。花を贈る、礼状や手紙を書く、電話を入れるなど、細かい配慮を大事にされた。お会いになる方などに対して、ちょっとでも配慮が欠けたことがあると、秘書としての気配りが足らないとよく叱られた。

そして、情に厚い方だった。ご自身が幼い頃にお母さんを亡くして苦労されたせいか、弱い立場の人たちへの想いが厚かった。また、私たちのような秘書のことも、知り合いの方のご家族のことなども、気にかけて、よく声をかけられた。知事の終わりの頃には、だんだん涙もろくなられ、親しい方の葬儀では目を真っ赤にして涙を流されることもあった。

酒がお好きで、糖尿病の持病があったにもかかわらず、夜になると二次会、三次会は当たり前。まさしく豪放磊落、足腰が立たなくなるほど飲まれて、担いで帰ることもあった。昼間は常に厳しく、いつ怒られるかとピリピリしていたが、飲むといつも機嫌がよく、そういう時に本音をよく語られた。

秘書や運転手の間では、「おとっつぁん」と呼んでいたが、飲んだ時は、まさしく「おとっつぁん」だった。

遅刻魔で、行事には平気で遅れるし、面談は大幅に時間超過し、秘書としてはいつも悩まされた。新幹線に乗り遅れそうになって、岐阜羽島駅や東京駅のホームを一緒に走って駆け上がったことも数知れず。その度に、日程が悪いと叱られ、なんとかいい日程を作ろうと苦労した。

新しいもの好きで、特にIT系の家電がお好きだった。電気屋に立ち寄っては、高い商品なのにすぐ購入され、使い方がわからなくなると、「都竹くん、研究してみてくれ」と手渡される。弱ったなと思いながらも、勉強して使い方を教えると、その頃には興味がなくなってそのままということがよくあり、知事室にもご自宅にもそんな家電製品が山のようにあった。

奥さんとケンカしたらしく、朝から八つ当たりされて、運転手と参ったなと苦笑いしたこともある。そんな人間臭さが梶原さんの魅力だった。どれもこれも、その頃も今もいい思い出である。

私自身も大変かわいがっていただいた。経験の長い知事車の運転手から、「都竹くんはおとっつぁんとウマが合ってる」とよく言われたが、それは自分が飛騨の出身だったからかもしれない。飛騨という地域に大変強い思いを持っておられ、飛騨出身の私に親しみを感じておられたようだった。

岐阜県は飛騨で持っているようなものだとよく言われ、ご自身も飛騨のことに大変詳しかった。そして、私が飛騨について話すのを楽しみにしておられた。「都竹くんは愛郷心がある。飛騨を大事にしなさい。」とよく言われた。

知事退任後、しばらく疎遠な時期があったが、数年前に久しぶりに秘書経験者で集まる機会があってからは、再び秘書当時と全く変わらないおつきあいをいただいた。

市長選に出馬することになり、県庁を退職する数日前、ご挨拶にご自宅を訪問すると、選挙や市長の心構えなどを親身に指導していただいた。

選挙当日も、万歳の後、一番初めに電話をくださったのは、他ならぬ梶原さんだった。よかったよかったと大変な喜びようで、本当に感謝の気持ちでいっぱいになった。

市長になってからも、何度も電話をくださり、色々なアドバイスをしていただいた。

就任して2ヶ月ほど経った頃だったが、行事の合間に急に時間ができて、突然だったが、岐阜のご自宅にお邪魔したことがある。

ご自宅に行くと、パソコンに向かっておられて、どうしたのかと思ったら、A4で10数ページの資料を渡された。「君が来ることがあったら、渡そうと思って、作っとったんや」と。そこには、飛騨市が取り組むといいと思うこと、考え方のヒント、時代の読み方などがびっしりと書かれていた。

お邪魔すると予告して行ったのならそれに合わせて作られていたとしても不思議はない。しかし、その時は数分前に突然連絡をして伺ったのである。つまり、いつ来るかわからない私のために、たくさんの資料を準備されていたのだ。

涙が出た。こんなに親身に考えていてくださることに、ただただ感謝した。それからも、「新聞の記事で都竹くんを見つけると、うれしくてなあ」とよく電話をくださった。

最後にお目にかかったのは、今年の5月22日だった。岐阜への出張の際に、ご自宅におじゃました。体調がすぐれないということで、少し辛そうにしておられたが、頭は相変わらずしっかりされていて、市政のことを報告すると、よくやってると喜んでくださった。

これから本を書きたいと、その時言っておられた。まだまだやりたいことがたくさんあったことと思う。その仕事ができなかったことが、ご本人にとって最も心残りだったのではないだろうか。

帰りに、もう自分は使わないからと、大量のネクタイをいただいた。今思うと、形見をいただいたような気がする。せっかくなので写真を撮りませんかというと、奥様もご一緒に撮ろう撮ろうと応じてくださった。そういえば、秘書時代も知事と一緒に写真を撮ることはあまりなかった。貴重な一枚である。

知事として多大な功績を残されたが、特に投資系、開発系の事業では批判も多かった。全国知事会長として「闘う知事会」を掲げて国と議論を重ねたことも賛否両論あるし、県政でもうまくいかなかった政策も実際にある。政治家に毀誉褒貶はつきものだ。「知事としての評価は棺を蓋いて定まる」ものだとよく言われていたが、これから改めて評価が定まってくるだろう。

しかし、近くで見ていて、どんな政策にもものすごい勉強と思索に裏打ちされた信念があった。だから、批判されても、信じた道を進むのだという強さを持っておられた。その点はいつもすごいと思った。

私自身、政策そのものは、決して同じではない。考え方の異なるところも多々ある。しかし、梶原さんから学んだことが自分の基軸になっている。仕事のスタイルと発想法、そして情熱。私の目指す先には梶原さんがいる。

幽明境を異にした今、もはや梶原さんから直接ご指導をいただくことはできなくなったが、近くでお仕えして、謦咳に接し、人生を共にすることができた幸せに感謝しかない。しっかりと市政に取り組むことで、ご恩を返したい。

おとっつぁん、心からご冥福をお祈りします。ありがとうございました。



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