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人を思いやる(2020.5.5のFB投稿)

この記事にあるデザイン、市の職員が個人的にFacebookに掲載したものが思わぬ話題を呼んだものです。

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本来、道路運送車両法12条で、使用の本拠地が変わった場合には15日以内に変更登録の申請をしなければならないことが定められており、罰則もあります。

なので、違う地域のナンバーのままであることは違法なのですが、一定期間の人事異動などでの赴任や一時的な滞在のような方がそのまま利用されていることが多いのが、飛騨市に限らず全国的な実態で、このデザインも重宝されている方が多いようです。

それもあるのですが、実はこの件、投稿するのをためらっていました。

この連休前から、不要不急の外出、県を跨いでの移動、帰省などの自粛を徹底して呼びかけるようになった頃から、県外ナンバーに対する目が厳しくなり、国民全体が相互監視をする自警団のようになっており、これを逆の意味で追認してしまうことになるような気がしていたからです。

実際に、ここ最近、県外ナンバーの車が来ていることや、観光客らしい方の姿を見られた方から、通報のようなお知らせがあったり、市から警告などができないのかというご意見も寄せられていますし、私自身も直接伺うことが頻繁にあります。

全国の多くの市町村長も、多かれ少なかれ、それぞれの市民の方々から、行政で取り締まれ、警告せよという厳しい意見にさらされているようです。

1日の市議会でも、明らかに遊びに来ている人がいて、不安がっている市民がいるので、何とかできないのかという質問がありました。

私は、これだけ国も地方自治体も、メディアも、あらゆるところで呼びかけをしていても、なお動かれる方がいることには正直何ともならない、そうした方が一定数はいると受け止めざるを得ないと申し上げました。

事実、特措法には私権を制限する強制力がありませんから、できることは自粛の要請に止まりますし、道路などを封鎖してしまうことも、必要な物流や個人の必要な行き来もあるので、実際には難しいのが実情です。このために、個人のモラルに委ねられることになるわけです。

ところが、自粛というのは極めてストレスが溜まる行為です。そうすると、自分はしっかり自粛しているのに、自分と同様に我慢できない奴はおかしい、非難されるべきだという意識が生まれます。それが多数になっていくと、同調圧力が生じます。さらにそれが嵩じると、相互監視の自警団化していきます。

これがエスカレートし、ヒステリックになると、必ず人に対する攻撃が始まります。法的にできない制限、制裁を、個人が行う「私刑」になっていきます。

実際に、自粛を要請されている行動をする人たちに対して、これを攻撃したり、中傷したりする動きが見られるようになっています。相互監視のような状態に陥っており、車のナンバーひとつで、排斥したり、攻撃したりする動きがあります。

これだけ国も自治体も、マスコミも、あらゆる人たちが呼びかけを行っていても、動いてしまう方々がいることに対して、「我々を感染リスクに晒してけしからん」という気持ちはわかります。

しかし、よく冷静になって考えてみると、即感染リスクが高まるということはないはずです。

例えば、飛騨市に誰かが釣りに来ていたとして、そこに自分が行き、直接接触しなければ感染はしません。山菜採りに来ている人がいたとしても、同じように、その人にわざわざ会いに行かなければ感染しません。

また、例えば、その人が町に来て散策していたとします。近くで接触しなければ、あるいは自分がしっかり手洗い、手指消毒をすれば、感染リスクは低くなります。
自分のお店に都市部の人が来たとしても、今や感染者であるリスクは飛騨市民であっても基本的には同じですから、打つべき対策は変わりません。

なのに、なぜ批判すべき相手として考えてしまうのか。それは「自分も努力して自粛しているのに、守らない奴がいると、自分がバカを見る。不公平だ。」という気持ちがあるからです。

さらに言えば、自分が行っている非難は正当化されるはずだという意識もあります。社会を正義と不正義に分けて線引きし、自分は正義側にあるから何を言ってもいいのだという思いが必ず潜んでいます。

怖いのはこのことです。世界の歴史上、こうした相互監視、自警団的な動きが広がって悲劇を招いたことは山のようにあります。

私のように為政者に分類される人間にとっては、こうした相互監視の動きを利用しようと思えばできてしまいます。それが悲劇をもたらした歴史上の出来事も枚挙にいとまがありません。

かく言う私自身も「あれだけ不要不急の外出は控えろって言われてるだろ」と思ってしまうのは事実です。特にこの連休中、感染拡大を防ぐために、行動を控えていただきたいと本心から思い、お願いもしています。

ただ、同時に、「もしかしたら、外へ出るなと言われても、外へ出なければならない理由があるのかもしれない」と思ってみるようにもしています。

もしかすると、家族がものすごいストレスを抱え、止むに止まれず出てきているかもしれません。今この時しかできない思い出作りなのかもしれません。あるいは、何かどうしても必要な理由で車を走らせているのかもしれません。それは外からはわからないことです。

もしそうだったとしたら、そして、自分がその立場だったら。こういう想像力を持ってみることは大事だと思うのです。

そうでなかったとしても、自分ができることをしようと考えるきっかけになると思いますし、何より人を思いやる社会をつくる基礎になるからです。
新型コロナの危機にあって、私たちは色々な意味で試されているのかもしれません。

ただ、「飛騨ナンバーではないが、飛騨に住んでいます」というような表示が不必要になる地域や社会。それこそが私たちの目指す社会であることは間違いないと、私は思います。

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