小学校6年生の時の先生を囲んでの同窓会(2011.6.19のFBノート)

今週末は古川小学校6年生の時の担任の先生を囲んでの同窓会を、下呂の水明館で行った。小中学校の同窓会では初めての泊まりである。10名が参加し、夜遅くまで、呑んで語って、温泉につかって、大変楽しい時間を過ごすことができた。

話が持ち上がったのは昨年の秋で、先生が75歳を超えたということで、一度お元気なうちに同窓会をやろうということになったのがきっかけである。打ち合わせと称しては、幹事一同で飲み会を繰り返し、そのうちに、どうせなら泊まりでじっくりやろうじゃないかということになり、泊まるなら同級生が若女将を務める下呂温泉の水明館がいいと言うことになって、ここに至った。こうしたプロセスがまた楽しかった。

私たちの6年生の時の担任は石原正美先生という方である。卒業して33年目になるが、5・6年生と担任をしてもらったので、先生とは出会って35年目ということになる。当時は現在の私たちより若い40歳の先生だったということになるが、今、自分がそれを越える年齢になっていると思うと隔世の感がある。

先生は個性的で、大変ユニーク、愉快で、楽しい方であると同時に、当時から反骨精神旺盛で、校長の方針に真っ向から対抗していくようなところがあった。こうと思ったことはズケズケ言うタイプで、たぶん学校では扱いにくい教員だったと思うが、子どもには人気が高かった。昭和50年代の最初は、だんだんと学校がシステマティックになっていく時代で、子どもなりに何となく息苦しさのようなものを感じ始めていた中で、ある種の解放感があったのだと思う。

3年前にタイムカプセルを30年ぶりに開けた時の寄せ書きなどが残っていて、今回それを持ってきて、改めてみんなで見たら、先生の寄せ書きは「30年後には新しいカアチャンを連れて遊びに行くよ」と書いてあった。先生らしいと大笑いしたが、今だったら保護者に問題にされるのではないかと思う。普段の授業でも同じような感じだった。時代的にもおおらかなところがあったのだろう。

そんな先生だが、懇親会の挨拶の時に、「お誘いの電話が来てから、この日を指折り数えて待っていた。30年以上も前の教え子から誘われるということ自体が教師冥利に尽きる。この年になっても子どもたちから花束までもらえたぞとカアチャンに自慢できる。」と随分と喜んでおられた。企画した私たちとしても、うれしい限りである。先生もだんだんと冗舌になり、夕べは夜遅くまでいろいろなお話しをした。小学校当時の授業を思い出すような感じがして、何だか涙が出るような時もあった。

昨晩、一番驚いたのは、一人ひとりの子どものことをかなり克明に覚えておられたことだ。あの子は何が得意だったとか、家はどこにあったとか、あのときの作品は見事だったとか、すらすらと出てくることに驚いた。たまに、名前から思い出せない子がいても、写真を見せると、この子はこうだったと、たちまち記憶がよみがえってくる。35年近く前のことなのにと、スゴイの一言だった。

先生は、教師時代、毎日、夜寝る前にクラスの一人ひとりの今日一日のことを振り返って、あの子はこういういいことがあった、この子はこんなことがあったと思い出すのを日課にしていたのだという。中に、どうしても思い出せない子がいると、ちゃんと目が向けられてない自分を反省し、全員に目を向けようとすることを自分に課していたのだと言っていた。いいところを見つけようというタイプの先生だったから、伸ばしてやれるところはないかと考えておられたのだろう。すごいことだと思った。

ここ数年、自分も担当の職員をどうやって育てていくのかということをいつも考えている。強みを見つけて、伸ばすこと、仕事の内容を素直に見て、いい仕事をしたと思う時は思い切りほめること、この2つを心がけるようにしているが、なかなか思うようにいかないなと思うことも多く、悩みは尽きない。そんな中で、昨日は先生に学ばせてもらった。35年近くも経って、改めて恩師の授業を受けたような気がした。

先生は、「オレは100まで生きるぞ!」と意気軒昂だった。「そうしたら、我々が還暦の時に来賓で来てもらえますね」などとみんなで軽口をたたいて笑ったが、本当にいつまでも元気でいていただき、もっといろいろなことを教えてもらいたいと思った。

心の許せる故郷の同級生たちと恩師を囲んで過ごした一夜は、何事にも代え難い至福のひとときであった。

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