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なぜ私が今になって認知を求めるのか

こんにちは!JFCネットワーク事務局です。
今回は、2023年12月のニュースレターにも掲載した「なぜ私が今になって認知を求めるのか」というストーリーを紹介します。「認知」とは婚姻していない両親から生まれた子どもを、その父または母が自分の子であると認める法律行為のことです。JFCネットワークでは、主に日本人の父親とフィリピン人の母親から生まれた子ども(JFC:Japanese Filipino Children)の認知などの法的なサポートをしています。マコさんがフィリピン・マニラの事務所「マリガヤハウス」に自ら相談に来たのは、彼女が19歳のときでした。彼女はなぜ、父親との法律上の親子関係を求めたのでしょうか。


プロローグ


私は何のために生まれてきたのだろう。
私のせいで母は休む暇もなく体を壊しても働き続け
父は徹底的に私を無視し、私の存在を否定し、私とのかかわりを生涯、避けようとしている
私が生まれて来たことは人を不幸にしているだけだと思うと自分の存在を消したくなる。
なぜ成人になった私が今頃になって父に娘だと認めてもらいたいのかわかりますか?
認知なんてお金にもならないのになぜ? 人は聞きます。
父が私を愛することはないと分かった今、
ただ、私は、日本人の子として日本に名前を刻みたいのです。

現地の事務所への相談まで


2016年7月、JFCのマコ(仮名)さんからマリガヤハウスへ相談がありました。マコさんは19歳でした。「日本人の父親を捜したい」。マコさんは父親からの認知を強く希望しました。
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マコさんの母、レナ(仮名)さんは、8人きょうだいの長女として生まれました。一家の生活はとても貧しく、レナさんは大学へ進学したかったが、弟や妹たちの学業継続を優先し、働くことを決めました。
 レナさんがレジ係として働いていた時、叔母からの紹介で日本での仕事を勧められ、1989年9月、レナさんは初めて来日しました。当時24歳でした。働いた先のクラブの環境は劣悪で、レナさんは早く帰国をしたかったが、雇用主は帰国を許さず、パスポートは取り上げられ、給料は払ってもらえず、無償労働を強いられ1年以上が経っていました。いつの間にかオーバーステイになっていると知ったのは、ずいぶん経ってからのことでした。その後、友人と職場を逃げ出し、入管へ出頭し、フィリピンへ帰国しました。
 1993年3月、レナさんは3度目の来日をし、九州地方のクラブで働きました。その時にお店のお客として来ていた小森(仮名)氏とつきあうようになりました。ところが、二人がつきあっていることがお店のママに知られ、本来なら契約打ち切り・強制帰国させられるところだったが、「もう会わない」ことを条件に強制帰国はされなかったのです。
1993年12月、レナさんはフィリピンへ帰国しました。その後、レナさんは何回か日本とフィリピンを往復しました。
 小森氏も何度かフィリピンを訪れました。レナさんが30歳を迎えたとき、この歳ではエンターテイナーとして日本で働くには高齢なのでそろそろ働くのを辞めたらどうかと小森氏から提案されたことがありました。
 しかし、レナさんには夢がありました。お金を貯めてフィリピンでビジネスを始めたかったのです。その資金を貯めるまでは日本での仕事をやめるつもりはありませんでした。
 フィリピンにいる親戚たちは「まだ子どもができないの?」とレナさんが子どもを持たず結婚もせずに年老いていくことを心配しました。レナさんは結婚は別としても子どもは欲しいと思っていたので、小森氏に「子どもが欲しい」と伝えました。
小森氏は「子どもをつくるのは簡単だが、その後、妥協することもあり、責任も発生する。子どもをつくることを簡単にとらえてはいけない。十分に準備をしなければ」と言われました。しかし、本当に子どもが欲しいならと彼は子どもを持つことに応じました。   
1996年1月、レナさんは念願の子どもを妊娠し、小森氏も大喜びをしました。
1996年8月、レナさんは早産で双子を出産しました。子どもは男の子と女の子だったので、名前をマイク(仮名)とマコ(仮名)と名付けました。子どもたちは未熟児でレナさんも出血がひどくICUに移され、3日間眠っていたとそうです。数日後、双子の男の子のマイクが亡くなりました。レナさんは帝王切開の手術の所為で出血がひどく生存率が5分5分でした。医療費を払うためにレナさんは小森氏からビジネスのために送られてきたお金を使いました。そのことが小森氏を怒らせ、ビジネスのためのお金はビジネスだけに使うべきで、そのおかげで莫大な損失を被ったとレナさんを責めました。
マコさんが1歳の時、小森氏はフィリピンを訪れましたが、以前とは違い小森氏の気持ちがレナさんから離れていること、二人の心が通わなくなっていることを感じました。
 案の定、小森氏が日本に帰国後、連絡はすっかり途絶えました。送金もなくなり、ビジネスで抱えた借金の返済のためにレナさんは昼夜問わず働き詰めました。幼い娘と遊ぶ時間も取れず、朝に家を出るときはまだマコさんは寝ていて、仕事から帰るともう寝ていました。たまにマコさんが起きることがあると、レナさんをきつく抱きしめて、「ママ、行かないで!」と大泣きされました。母として胸が押しつぶされそうになりましたが、生活のためにはそうせざるを得なかったのです。
レナさんは娘を両親に預け、朝早くから夜遅くまで働いても、生活していくための十分な収入を得られませんでした。娘のミルクが買えず砂糖水を作り飲ませました。
 マコさんは未熟児で生まれたため、身体が弱かったのです。病弱な娘の医療費を得るために親戚たちにも何度も借金をしました。
 マコさんは小学生になりましたが、レナさんは傍にいてあげられず、マコさんは家で過ごす時間のほとんどを一人で過ごしました。
 マコさんは大きくなるにつれ、父のことを尋ねてきました。ある時は学校でいじめられたと言って泣いて帰ってきたこともありました。レナさんは幼い娘に学校のことを一切任せ、母として娘に寄り添えてないことを知りつらかったです。マコさんは母の状況を幼いながらも理解し、無理なことは決して言わず、母が学校行事にも参加できず、宿題や試験の準備も手伝ってあげることもできないのに文句ひとつ言わなかったのです。マコさんは黙々と一人ですべてをやりこなし、試験の成績は高成績を維持していました。仕事から帰ってきたレナさんにマコさんは試験の結果や賞状を見せたり、競技会で優勝した話をしてくれたりしました。病弱のマコさんで学校を休むことも多かったのですが、マコさんは特に美術に秀でていました。卒業式の総代候補にあがったのですが、欠席日数が出席日数とほぼ同日だったため最終的には選ばれませんでした。しかし、卒業式の最後のスピーチに選ばれました。レナさんは卒業式には必ず出席しようと仕事を休みました。娘のスピーチを前に緊張しましたが、マコさんは原稿を読み上げることなく、堂々とスピーチを終え、会場から大きな拍手をもらい母として誇らしかったのです。
 マコさんは高校でも同様に優れた成績を収め、大学進学を希望しました。しかし入学資金がなかったため1年間学業を中断し、1年後にマコさんは医学部に入学しました。しかし、月謝がとても高く継続ができず、再びマコさんは学業を中断することになりました。
 マコさんがマリガヤハウスを訪れたのはそんな頃、19歳の時でした。

弁護士への相談


弁護士が調停の申立てをしたところ、小森氏は弁護士をつけて争ってきました。以前、他団体を通じて135万円を払ったし、「認知はしない」「養育費は払わない」という合意書を交わしたと言いました。しかし、レナさんに確認したところ、その団体に相談したことは確かだが、お金は4万円しか受け取っておらず、交わした合意書の内容も日本語で書かれておりその内容もわからず写しももらっておらず覚えてないと主張しました。
マコさんがなぜ今になり、父に対して認知請求をしたいのかを知りたいとのことで、マコさんは父への手紙を書き提出しました。

マコさんから父への手紙

なぜ私を見捨てたのか


私は父親がいない環境で育ち、一番つらかったのは、男性を信用できない状態に陥ったことです。私を本来守ってくれるはずの人から、私は苦しめられ見殺しにされました。こんな仕打ちを受け、どうして男性を信じることができるのでしょうか。
お父さん、私は生涯父を愛し、生涯、父に会いたかったという事をあなたに知ってほしいのです。なぜあなたは私を見捨てたのですか? あなたが幸せになるために、どうして私が苦しまなければならないのですか? お父さん、あなたは私の心を粉々に壊した最初の人です。母が何度も繰り返し話してくれたあなたとの楽しい思い出が、頭の中で繰り返されました。母はあなたを悪く言ったことは決してなく、父のせいで私たちはこんな境遇に陥ったにもかかわらず、母は私にあなたを怒ることを教えませんでした。しかし、スラム街で育ち、お腹を空かせ、薬も買えず病気のために弱った体で、私は父のことを好意的に話す母に聞きたくなりました。もしも、母が語るような父が私たちを愛しているなら、なぜ私は空腹なの? なぜ、私はこんなに傷ついているの? 母が言うような素敵な父はどこにいるの?と。

私の生い立ち


私は今、大人になり、母を通して努力と忍耐の大切さを学びました。幼い頃、母は私たちが生活するために仕事を掛け持ちしていました。母は一日たりとも働くことをやめませんでした。病気の私に薬や食事が必要なため、休みを取る余裕はありませんでした。私の幼い頃の記憶は、病院に入院していたこと、スラム街でほとんど食べ物がなかったこと、あるいは全く食べられなかったことです。でも、私が気を失いそうなほどお腹が空いたからと言って、母が私の必要とするものを与えることを疎かにしていたとは思わないでください。母は、自分が稼ぐことのできるお金で、私に必要な薬を買うか、食べ物を買うか、どちらかを選ばなければなりませんでした。母は、時には食べ物よりも薬を選ばなければなりませんでした。1日や2日なら飢えで死ぬことはないですが、1日でも薬を飲まないと私がもっと苦しむことになる、ということを母はわかっていたからです。私は先天性の肺の疾患を患っており、母と私は何年も闘わなければなりませんでした。
8歳のとき、私の肺の病気が悪化し、痙攣を起こしたり、呼吸困難に陥るほど高熱を出したりした時、いつも母は仕事に行くのをためらったことを覚えています。母は仕事に行くことを本当に躊躇しましたが、祖母や祖父に私を預けて仕事に行かざるを得ませんでした。なぜなら、私と母には毎日を生きるためのお金が必要だったからです。一度でも仕事を休むと、それは何日も食べ物や薬を買うお金がなくなるという事を意味していたからでした。母は私のために何でもしてくれました。私のために何年も働き続け、疲れ果てて高熱を出しても、仕事に行く姿を見たことがあります。それでも、空腹でいることが当たり前になった時期の事は、私は一生忘れることはできないと思います。
常に薬を飲むことが必要でしたが、薬は決して安いものではありませんでした。空腹を和らげるために、果実のなる木を探し歩いたこともありました。食べ物を食べたいと感じないように、無理やり眠ったこともあります。体の痛みを和らげてくれる薬に感謝しながら、気絶しそうなほどお腹が空いていることを我慢していたこともありました。幼いながらも、生活が貧しいことは分かっていたので、不平を言うこともなく我慢していました。熱を出しても、体を酷使しながらも、毎日欠かさず仕事に行く母親を見て、どうして子どもの私がお腹が空いたなんて言えるのでしょうか。
母はいつも夜遅くに帰ってきましたが、たまに私がまだ起きている間に帰ってきた時は、小さな手で母の頭や足をマッサージしてあげました。私が母に、父のことを質問すると、母は父がどんなに素晴らしいか、父が私をどんなに愛していたかを話してくれました。母の疲れた身体と私の空腹はそのままにして、私たちはずっと父のことを好意的に話していました。母に「お父さんは今どこにいるの?」「お父さんはいつ帰ってくるの?」と聞くと、母はいつも「我慢して。もしあなたが元気になり、学校で良い成績を収めたら、お父さんはきっとあなたを誇りに思って、すぐに私たちのところに帰ってくるから。お父さんは私たちのために一生懸命働いているから、お父さんが無事でいること、そしてすぐに戻ってくることを祈ってね」といいました。
なので、私は毎晩、神に祈りました。「神様が父を見守り、無事に私たちの元へ返してくれますように。父が何をしていても、どこにいても、私を思い出す時間がありますように」と。お父さん、私はずっとあなたを愛しています。本当に、私のこれまでの人生で毎日、毎日、ただただあなたが恋しかった。これは真実です。
しかし、大人になるにつれて、母が語らなくとも少しずつ現実がわかるようになりました。父は私たちのところに帰ってくることはないのだということを、私は少しずつ理解するようになりました。学校では、私が人と違うことや、学校の保護者会などで、両親の出席が必要な時に親が欠席なのを理由に、私は常にいじめられてきました。学校に入学してからは、7歳という年齢でも自立しなければなりませんでした。自分で学校へ行き、帰ってくるのも一人でした。宿題やプロジェクトは、一人で取り組まねばなりませんでした。そして、学校へ両親が行かなくてはならない時はいつでも、私は先生に両親は忙しいのです、と伝えていました。学校の他の子どもたちには両親がいて、必要な時にはいつでも親が来ていたのに、私は常に一人だったので皆は変だと思っていたと思います。そのため、私はいつも言葉や身体的な暴力を受けいじめられてきました。しかし、私は幼い頃から自立しなければならなかったので、7歳になると、翌朝、きれいな制服で学校に行けるように、自分であざの手当てをし、汚れた制服を洗いました。母は夜中に仕事から疲れて帰ってくるので、母にそれをさせることはできませんでした。
私の子ども時代はどうだったかと聞かれれば、学校では空腹でいじめられ、家では空腹で孤独だったという記憶ばかりです。
スラム街で育つのは決して楽なことではありません。私の子ども時代には家庭内暴力や性的暴行も受けました。もう思い出したくもないことですが、今でも思い出す度に、ひどい嫌悪感と恐怖と孤独に襲われます。これらの出来事は、私が高校生だったころの暗い思い出です。
高校時代は私の人生で最も暗い時期でした。学校からの帰り道、わざとトラックに轢かれて、すべてを終わりにしたいと願ったことを覚えています。私はとても疲れていました。空腹に耐えることにも、大勢の中に溶け込もうとすることにも、常に心の中に空虚さを感じることにも、なぜ自分が苦しんでいるのかと問うことにも、ただ生きることに疲れていました。 
崩壊した家庭の中で、母親は私の食べ物と住むところを確保するだけでも24時間365日忙しく、父親がいないため、アイデンティティの危機を抱えている中で、私は精神的に壊れていきました。しかし、私を完全に壊した事は、私を守ってくれる父親がいなかった事、母は私が毎日生き延びるのに必要なものを得ることに忙しく不在だったことで、私は弱く抵抗できないものと思われ、その結果、家庭内暴力や恒常的な性的暴行の被害者となったことでした。
そして私は沈黙を守るという選択をしました。母に心配をかけたくないと思い、家庭内暴力や性的暴行のことは母にも誰にも話しませんでした。母はもう十分に苦しんでいると思ったからです。しかし、これらのことを自分の中に留めておくと、すぐに爆発して、逆に私や母をもっと傷つけるようなことにもなりました。
14歳の時、私はもう自分ではありませんでした。狭い部屋に閉じこもり、食事もしたくなく、学校にも行きたくなく、外にも出たくありませんでした。私が必死に隠していた体中のあざに、母が気づいたのを覚えています。私が、今まで強い女性、スーパーウーマンだと思っていた母が、私の前で子どものように泣きました。母が泣く姿を私は人生で初めて見ました。このようなことになったのは何が悪かったのか、私を失ったら母は自殺をすると言いました。
「私がこの数年間自分をどうやって強く保っているかわかる? それはあなたがいるからよ。私は、あなたのお兄さんを亡くし、あなたのお父さんを無くし、そして私は自信を失い、自分の行くべき道も見失った。今は大変だと思うけど、お願いだから、私を残して逝かないで。あなたは私の全てで、私の生きがいなのだから。」
母が言ったこの言葉は、私の心の中に永遠に刻まれることになるものでした。
母は私のことを心配して、一緒に病院に行きました。そして、診断の結果、私は不安障害だと判りました。認知行動療法と薬の服用を勧められましたが、それは非常に高額で、とても払えそうにありませんでした。そのため、その診断結果を聞かなかったことにしました。私と母は、普通の生活を送るために努力したのです。母が安心できるように、私は自分の感情を封印することを学びました。これ以上、母が苦しむ姿を見たくなかったからです。
何年もの間、肺の病気、精神的な病気と闘いながら生きる中で、私はあきらめことを学びました。あらゆる痛みと孤独に気づくことなく飲み込んでいくうちに感情が死んでいったのです。
母は、私を大学に行かせるために、長年勤めていた職場からお金を借りてくれました。私は成績が良く、奨学金の受給資格もありましたが、大学では、雑費やその他の支払いも必要で、生きていくには生活必需品や様々な支払いもあるため、母一人でやりくりするのは困難な状態でした。そのため、私は、大学進学はあきらめ、すぐに働いて母の家計を助けることにしました。
仕事をすることで精神的には少し楽になりましたが、ストレスや溜まったネガティブな感情を自分の中に閉じ込めていたことが、結局は良くなかったのだと思います
私は14歳の頃から自傷行為で自分を支え、その痛みによって自分がまだ生きていると感じることで自分を支えてきました。
18歳の時、私はもうあきらめ、手首を何度も切って自殺を図りました。今でもその傷跡が残っていますが、まるで一度死んだ私にもう一度生きるチャンスを与え、未来を書き直させたかのようです。
19歳の時、私は自殺監視下におかれ、職場の主治医から極度の不安障害とうつ病と診断されました。この時も、治療と薬物療法を勧められましたが、私はすべてを自分の胸に秘めておくことを選び、治療などを一切受けないことにしました。私は生活していくためのお金さえなかったのです。
この間、私は父を探すことにしましたが、決して父からお金をもらいたいからではありません。私はもう自活しているし、父からの支援なしでこの数年間を生き抜いてきたのです。あなたはある日突然逃げ出し、私の前からいなくなりました。飢えと孤独、そして疎外感と遺棄された世界しか知らなかった私が、あなたとのつながりを見つけた瞬間に、そうした私の世界が消えていくことを望んでいたのです。

私が今になって認知を求める理由


お父さん、私はずっとあなたを待っていました。あなたが私と母に残していったこの苦しみから救ってくれることを期待して。しかし、あなたは決して来ませんでした。私が生きているかどうかを調べようともしませんでした。なぜ、今になって認知してもらおうと私が思ったのだと思いますか? 私もあなたに聞きたいのです。なぜ、私があなたになぜ認知をしてもらいたいと思っていると思いますか? 私はあなたの子どもではないのでしょうか?
私もあなたの子どもです。あなたに捨てられた後、全ての困難に耐えてきたあなたの子どもなのです。あなたが日本の子どもたちと幸せに過ごしている間、あなたは私を苦しみの中に置き去りにしたのです。
孤独、病気と飢えの苦しみ、見知らぬ人たちに性的にも身体的にも搾取された中に私を残しながら、あなたと日本の子どもたちは、私が子どもの頃に味わいたいと夢見たものを食べ、明るい光の中で平和に過ごしていたのだと思います。
お父さん、どうして今になって認知をしてほしいのか私に聞く前に、どうして私が今、あなたに認知をしてほしいと頼んでいるのか考えてみてください。
私は私の名前を日本に刻みたいのです。いつか生まれる私の子どもの将来のため、私の孫の将来のため、私と同じように苦しみ続けた母のため私は認知を求めています。
私があなたに認知を求めたのは、父を知りたい、父の存在と愛を感じたい、という父を求める強い気持ちからでした。それは、私が一人の人間として完成していないと感じたからでした。しかし、今、私は25歳になり、双極性障害と重いうつ病と診断されました。これは私が生涯で直面してきたすべてのトラウマが原因です。私は、あなたがここに来て私を助けてくれるだろうと期待することにもう疲れました。私があなたを愛したとしても、あなたは私を愛さないのだという事に気づいたのです。それは私の痛みです。
今、私は、あなたが私を愛することはないだろうとわかっています。たとえそれが苦痛であっても、それを受け入れることを学びました。今、私がただ望むのは、日本でより良い未来を手に入れるために、法的認知をしてもらうことです。私は努力家なので、私の努力は日本で報われると信じています。私のために多くのことを耐えてくれた母のためにも、明るい未来、より良い老後を送れるようにしたいのです。お父さん、これが私があなたに頼んでいることなのです。25年間、私を見捨て、苦しめてきたあなたに、娘としてお願いしたいのはこれだけです。もし、あなたの胸にまだ人の心が残っているのなら、あなたの娘が願い続けてきた認知を得られるように、心を砕いてください。認知をしてくれるのであれば、私を野良犬のように見捨てたあなたが私に許してほしいと言わなくても、ただ一度だけでも私を認めて父親になってくれたことを、私は一生感謝します。
お父さん、あなたの心に私への愛が残っているかどうかわかりません。でも、私はいつもあなたの幸せを願い、祈り、そしていつも父を尊敬し、愛していること、そして、いつかあなたが私には父親がいるのだということを経験させてくれることを願っているのだと知っていてほしいのです。私はずっとあなたに抱きしめられることを願ってきました。
あなたが私を認知する心がまだあることを願って。あなたを愛しています。そして神の祝福がありますように。

認知の条件


小森氏は一定の合意ができればDNA鑑定に応じると言い、マコさんと連絡を取り合わないという条件をつきつけてきました。
しかし、父に会いたいことを心から願っているマコさんにとってそれほど酷な条件はなかったのです。そのため何度かやり取りを重ね最終的に「承諾のない限りの」面会や接近はしないという文面としました。もしマコさんが将来、父に会いに行きたいと希望するときには、マコさんの弁護士が間に入ってくれることになりました。
DNA鑑定の結果、父子関係は認められ、2023年11月、マコさんは小森氏の子どもだと認めた審判が出ました。

マリガヤ応援ファンド


フィリピン・マニラの事務所「マリガヤハウス」を応援するための基金です。
いただいたご寄附は、すべてマリガヤハウスのために使われます。
マンスリーサポーターと今回のみの寄附があります。
今後もマリガヤハウスで母子からの相談を受ける活動が継続できるよう、ぜひご支援ください。

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