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2020年、僕は決めた。日本一の原稿を死ぬまで書くと。

2020年、僕は決めた、日本一の原稿を死ぬまで書くと。

あの時まで僕は、やるだけのことはやっている。
ベストを尽くしている。
そう思っていた。
いや、そう思いたかっただけなんだと思う。

今年、あのプレゼンで負けるまでは。


年月の積み重ねの中で

今まで、努力をしてきた方だと思っていた。
やれるだけのことをやっていると思っていた。

2004年にフリーライターになって、
高校生の時から夢見ていたサッカーライターになった。
スペインのバルセロナに住み始め、そこから4年。
ライターとして編集者として、年商は1200万円になった。
24歳から28歳までのキャリア・フリーライターとして、
実績でいうと十分だったと思う。

2008年に帰国して、WEB制作のスキルを身につけた。
必要に駆られて、いくつかの技術も併せて勉強する。
画像作成の簡単なデザイン、修正レベルでのコーディング。
企画・制作ができるWEBディレクターとして経験が増えると、
自然に手を出すことも増えてくる。
スチールカメラの撮影、プレミアを使っての動画編集、
イベントの台本作成。映像のディレクター。

やれることが増えていく中、社会的な評価も当然あがっていった。
分社化した会社の代表を任されたのは、2015年。
経営にさして興味はなかったが、ある意味、自然な流れのなかで、自分のキャリアはあがっていったのだ。

しかし、その反面。
「うらやましい」と思いながらも、
積極的に行動できないことが増えていった。
後輩の友人が立ち上げたメディアで、
こういうところで書けたらいいな、とか。
中学校の同級生が監督を務めるスポーツチームを見て、
こういう仕事をできたらいいな、とか。
ライターとしての経験を、昔懐かしく思う一方、
いつしか、昔ほどの行動力がなくなっていた。

ただ、今ある仕事をこなすことが、
自分のミッションである。
そう、勝手に自分でリミットを作っていたんだ。

表現の場所が奪われる不安

2020年夏、その時は、突然やってきた。
10年以上携わっている、
社会人チームのHPをリニューアルすることになった。
ナショナルクライアントで規模も大きい。

当然、流れとして、複数社でのプレゼンとなった。
関係者との信頼関係からしても、
自分に分があると思っていた。
それが間違いだったのだ。

2020年6月、プレゼンの日がやってくる。
新型コロナウィルスの影響もあり、オンラインでのプレゼンテーション。
画面の向こう側に、20人以上ヒアリングしているクライアントがいる。
前日に1時間かけてプレゼンの練習もした。

自分が出した案は、整合性のあるものだったと思う。
ただ、「今までやってきた制作には自信がある。それをより高い質に持っていきたい」というものだった。
革新的なアイデアはない。
自分にできることを、さらに高めていきたい。
そういうものだった。

プレゼンから約2週間、結果を知らせるメールが来る。
「残念ながら期待に応えられない結果となりました」

予想もしていない結果だった。
むしろ、予想をしていなかったことが敗因だったのかもと思う。
会社の椅子に座り、上を見上げて、しばらく放心状態になった。
あまり、そのことを考えないように、しばらくして他の仕事に取り組む。

その日の帰り際。
今まで取材してきた選手たちの今後を終えないこと、伝えられないこと、表現する場がなるなること。
そのすべてに、今までにない不安を感じたのだ。

自分でも、驚いていた。
表現する場所が奪われること、
それに対する自分の内なる情熱。
それを、自分自身も知らなかった。

期待に応えられなかった悔しさ

それから数日、クライアントが説明に来てくれた。
ナショナルクラインアントが3人も揃ってきてくれたのだ。
規模を考えれば、小さな制作会社を切る程度、
メールひとつ、電話ひとつでもかまわない。
でも、彼らは「お世話になった守本さんにはしっかり説明したい」と言って、来てくれた。

その時までに、僕は自分の気持ちに整理をつけていた。
誰のせいでもない、120%自分のせいだ。
他社事例のフィードバックや、新しい企画の立案・進行、メディア戦略。そして、書ける・書こうと思っていたのに、忙しいことを理由にかかなかった原稿たち。
自分の価値を示せなかった自分のせいだ。

「だから、みなさんに謝ってもらう必要は全くありま…」と言いかけたところで、涙があふれて話せなくなった。
「すいません、ホントに僕のせいで…」と、強引に続けても話せない。
それは、5分も10分も続いただろうか。
24歳の女性部下社員と一緒に聞いた打ち合わせで、
40歳の中年男が号泣しているのである。
まったく情けない。

その打合せ後、同じ仕事を進めてきたメンバーに電話で謝罪と、これまでの経緯を伝えた。
「守本の実力不足のせいで、仕事がなくなりました」と。

メンバー数人が言ってくれた。
「守本君の原稿を出せることが一番のメリットだったのに」
「一緒に前へ進みましょう」
さすがに「お前のせいだ」なんて、責められるとは思っていなかった。でも、驚いたのは自分の思った以上に、周囲が僕のことを期待してくれていたことだ。

その日改めて気付いたんだ。

取材ができなかったり、表現する場がないことは辛い。
でも、それと同じぐらい、クライアントやチームメンバーの期待を裏切ったことが、悔しく、悲しく、不甲斐ないのだと。
それに気づいてから、ひたすら涙が止まらなくなった。
お世話になった人に書くメールの最中も、帰りの地下鉄の中でも、家の前でカギを開けるときにも。
思い出すたび涙が出た。

その時に決めたんだ。
「これからは期待を裏切らない」と。

僕は誰の前でも自信を持って、「日本一の原稿を書く」と宣言する

それから、自分の何かを変えなければいけないと思い、新しく行動を起こすことにした。
noteを始めた。TIKTOKを始めた。
前から気になっていた、えとみほさんの有料note『 えとみほの「考えるヒント」 』を購読する。
アテネ五輪で知りあって以来、疎遠になっていた岩本義弘さんのオンラインサロン「蹴球ゴールデン街」にも入った。

いくつか自分の中で、再構築をした中で、
これからの人生のテーマを決めたんだ。
それは「日本一の原稿を死ぬまで書く」ということ。

直接的ではないが、新型コロナウィルスの影響と時期を同じくして、仕事が減った。その遠因もあり、僕は行動することを怖がらなくなった。

前述した、中学校時代の友人にコンタクトを取り、そのチームの定期コラムの執筆・取材を担当するようになった。
そして、後輩がやっているメディアに書かせてもらうようにお願いした。
今まで感情的なメールは送らなった僕は、こんな文面でメールを送る。
「君と一緒に仕事がしたいから、書かせて欲しいんだ」

後輩からは、こんな返事が返ってくる「偉大な先輩と仕事ができて光栄です」と。
以前の僕なら、「いやいや、そんなことないよ」と答えただろう。
しかし、「ありがとう。その期待に応えるだけの原稿を書くよ」と僕は言った。

結果、それで書いた原稿は、150万PV以上を記録する。
取材対象となった関係者からも、「今までの原稿で一番好きです」と言ってもらえた。
「良かったです」「面白かったです」「良い原稿を書いてくれてありがとうございました」
それらの言葉のどれも、20代で聞いたどの感謝の言葉より、自分の心に響いた。

だから、僕は自分の生きるテーマを決めたんだ。
それぞれが人生をかけて、スポーツなり演劇なり作品作りに取り組んでいる。
それを伝える僕らが、中途半端な気持ちで向き合うわけにはいかない。

だから、常に「日本一の原稿を書こう」と。
できるかどうかはわからないし、問題でもない。
明確な基準はないのだから、不確かなものを追い求めてどうすると言われるかもしれない。
それでも、本気で、誰に聞かれても自信を持って、断言できること。
それが一番大事なのだ。

もう、僕は自分の生き方に迷うことはないだろう。
死ぬまで、日本一の原稿を書いてやる。
それが、僕の2020年の決断である。

#2020年わたしの選択

芋けんぴが好きなので、芋けんぴ代にさせていただきます。お仕事のご依頼もなんなりと。本当はWEB制作・企画、運用などが軸です。写真撮影、動画編集、サーバ管理、コーディングと、制作に必要なことはだいたいやれます