ツインレイと出会う前(学生時代編)

私は過去に集団性のあるイジメを受けたことがある。終わりの見えない現実や明るくもないであろう未来に対して大した希望を持てずに日々生活していた。そんな中でも私と付き合ってくれる友人の存在や楽しめる趣味がなければ引きこもりや自死を選択していたことだろう。
大学に進学してからは私を口撃する人はいなくなり(いや、事実として口撃する人はいたが、頻度として激減し毎日ではなくなったが正しい)、世間一般的な学生生活を送ることができた。人生で初めて異性と付き合うことも経験し、明るくもないと思っていた未来がそうではないかも知れないと感じ始めていたころに、私は精神的な病にかかってしまうのである。

大学4年の夏休みの出来事である。帰省していた実家から特急電車で2時間ほどかかる大学のある都市まで移動し、家に到着してからだったか電車の車中だったかは忘れたが、当時普及しだした携帯電話に大学の友人から電話がかかってきたのだ。明日行われる大学院入試でわからないところがあるのでテキストを貸して欲しいとのこと。私は準備をして彼の家まで車で向かった。ところが、車を運転中に突然息が苦しくなり心臓もドキドキしている。これはこのまま運転を続けると危ないと思い、リカーショップの大きな駐車場へ車を停める。一時的なものであってほしい思いから、しばらく休憩しようと座席を倒して仰向けに寝ていたところ、今度は母親から着信がある。

「無事に着いたか?」と聞かれ、死ぬかも知れない(と思っている)状況で心配させてはいけないと思い、「大丈夫。」と答えたのを覚えている。電話を切っても症状がおさまることはなく、誰の助けも借りれない状況の私はとうとう119に電話してしまう。携帯から電話したのでどこどこの交差点の近くのリカーショップの駐車場の車の中にいること、症状は何々ですのようなことを伝えると、しばらくしてサイレン鳴らした救急車がやって来る。私が呼びましたと名乗り出る。この頃にはもうなんともなくなっており、対応した救急隊員も緊急性はないことが見て取れたのか、症状から病気を特定したのか、緊張感のない救急車で病院へ向かう。病院では症状の説明と発作時の対策などの説明を受けるが、自分に起きたものが過呼吸・パニック発作と呼ばれるもので、その先20年以上もこの症状に悩まされるハメになるとは思ってもみなかった。

私は発作の翌日、大学院の入学試験を受けるのだが、友人との待ち合わせ時間まで寝てしまっていて、家の前まで迎えに来てくれた友人の電話で飛び起きたこと、急いでスーツに着替えヒゲも剃らず寝癖満開で面接を受けに行った記憶を今思い出した。

大学院には無事合格するのだが、当時はストレスに感じてしまった教授の叱咤激励を圧力と捉えてしまい、大学院時代に1度目の引きこもりを経験するのである。普通に考えれば好きでより学びを深める場に自分の意志で通っているのだから、欠席して単位が貰えなくても文句は言えず、当然卒業証書などもらえるはずはないのである。しかし、教授は大学院は病気療養機関としても使ってもらって良い。との意向を私に伝えてくれる。当時は嫌いで仕方なかった人物なので言葉の意味なんて理解しようともせず、大人になってからはじめてなんて器の広い人間なんだろうと、思うようになった。卒業してから知ったのだが、その教授は何らかの事情で孤児となった子どもたちを支援する活動をかなり長い間していると知り、自分の無知と他人への批判性を恥じた。

振り返るとタイミング、タイミングで電話がかかってきたり、それが起きるタイミングで何かをすることになる。ということが多い。自分の身に起きているネガティブな出来事は、おそらく私が他人に対して感じたり取ってしまった不平不満の態度、行動、言動が何百倍にもなって私に返ってきているのだろう。因果応報である。


状況が悪いから、病気だから、他人がやってくれないから、環境のせいだから・・・などと矢印を他者にばかり向けている私は『社会人になっても』私の身に災いは起こり続けていく・・・。



つづく。

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