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大正区縦断

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小学校6年のころ、家族旅行で初めて大阪に訪れた。母親と妹はユニバーサルスタジオジャパンに行き、父親と私は大阪ドームで近鉄バファローズ対日本ハムファイターズの試合を観戦した。先発は岩隈vs正田だった。正田が打ち込まれてマウンドを退く時に、ホーム側外野席から「引っ込め引っ込め正田!」と野次られていたのと、近鉄のキャッチャーだった藤井彰人が打席に立った際に「ほんまブサイクでっしゃろ!」とプラのコップに入ったビールを片手に大声で容姿の悪口をしゃべる初老の男性2人組に恐れ慄いた。母親と妹はその頃E.Tに名前を合成音で呼んでもらっていた。ホテルへの帰り道に寄った王将でチャーハンと餃子を食べた。20数年経ち、よもや自分が大阪に移り住み、家から歩いて5分の王将でジャストサイズの豚肉キクラゲ卵炒めとチューハイを注文し、5%会計が割引になるマジックカードをレジでかざして蛇行しながら帰路につくとは考えてもみなかった頃だ。

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区名を冠しているだけありJR大正駅ガード下は人でごった返していた。戦前の写真を最新技術でカラー再現したふうな趣だ。

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村上隆は玉出から強く影響を受けている

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大正区を南下する。駅はJRと大阪メトロ大正駅のみ。残す交通機関はバス、そして渡し舟以外に存在しない。大阪市内に暮らしていても大正区の南に下っていった経験のある人は少ないのではないか。西日本全域が雨模様だったから、この日の灰色の空が大正区の一生のイメージカラーとして刻まれてしまうかもしれない。大正区には第一次大戦のころ、食糧難にあえいだ沖縄の人々が出稼ぎに大挙し、そのまま移り住んだというルーツの方が多いらしいからせっかくならば晴天の日に来ればよかった。琉球空手の道場なんかも見かけた。

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洋服の青山ぐらい看板がでかい100均に目を惹かれ近づいていくとまさに「ダイソー&アオヤマ」だった。調べると青山の不採算店舗を居抜きで使っているらしい。商品ラインナップは通常のダイソーと変わらないとのことで、残された青山要素は「でかさ」だけのようだ。

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1Fから全店舗で1杯飲んで最後屋上から飛び降りたらウケるかもしれない

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商店街「サンクス平尾」に辿り着いた。土曜日の午後だったがシャッターの開いている店のほうが少なく残念ながら閑散としていた。そんな中でアーケードに設置されたスピーカーから延々と「ハイサイおじさん」が流れ続けていた。沖縄県民がインフルエンザに罹った時の夢に迷い込んだような空間だった。

朝から何も口にしていないまま曇り空の下を歩きほうけ、空腹で沖縄物産店に入った。食べ歩けるような物が売っていなかったが、せっかくだからと普段は手に取らないジュースでも飲もうと沖縄ならではの商品を購入。レジに立っていたスマブラの桜井さんに似ているおじさんから「ありがとう」と現地訛りでお礼を言われた。

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飲む極上ライス「ミキ」。飲料ではあまり見たことのないアイボリーだ。原材料は砂糖、うるち米、もち米、大麦、乳酸。宮古島の会社が販売店となっている。スチール缶の飲料を口にするのも久しぶりだ。一口飲むと、冷やした三分粥に黒蜜を混ぜたようなとろみと微かな甘みで、夏の乾いた喉を全く潤してくれなかった。しかし、まだまだ歩かなければ大正区は終わらないから、エネルギー補充としては嬉しかった。

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今年そういえばリオオリンピックか

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南に向かうにつれ人家は減り、倉庫、造船所、産廃の中間処理場など、おおよそ屈強な男たちが労働する施設ばかりで散歩するには不向きだった。

木津川を渡す千本川大橋まで登る螺旋が現れた。渡し舟も出ていたが、どうやら歩いて渡れそうだったから無心で大いなる螺旋をよじ登ることにした。おそらく誰とも会わないだろうとひたすら大いなる螺旋を登っていたら、ランニング中の男性に追い越された。大正区最強の男だと確信した。

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螺旋を登りきり、向こう岸を見渡した。セメント工場の煙突からは黒煙が上がっていた。北東を向くと微かにあべのハルカスまで眺望できた。気がつくと大正区をミキ一本で縦断していた。橋を渡り、螺旋を降り、しばらくまた歩いて四つ橋線北加賀屋駅から家路に着いた。

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最後、この世で唯一可愛くないパンダに歓迎された。疲労でぶれている。

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