無為について

先日、何の予定も入っていない土曜の午前、無為に目覚めて無為にテレビを点けると、『朝だ!生です旅サラダ』の放送中で、ビートたけし率いるたけし軍団に籍を置くラッシャー板前が新潟県新発田市にて、農家の栽培する珍重なパープルアスパラガスを試食しにいくという無為なロケを中継していた。パープルアスパラガスは土から掘り起こしたばかりの状態では鮮やかな紫色なのであるが、加熱処理をするとみるみるうちに緑色に変わり、通常のグリーンアスパラガスとさして見た目に差異がなくなるという無為な作物である。

ラッシャーは茹でたてのパープルアスパラガスに食塩をふりかけてかぶりつき感想を述べるのだが、その食塩をかけるくだりでアシスタントと思わしき女性に「もっと(塩を)ください」と催促したことが原因で、スタジオで様子を見守る神田正輝らから「(塩を)かけすぎ!」と叱責を受けていた。

テレビの視聴者側としては「なんの調味料による加工や作為がなくとも、自然がもたらす甘味・旨味のみによって満足せしめられる程のポテンシャルを秘めた食べ物である」という”くだり”が観られる、のかと思いきや、長年この土曜午前枠で方々の農家や漁業従事者の元を訪れたラッシャーが「塩をかけすぎる」ことで怒られている状態、はどこにも感情のやり場のない無為である。ビートたけしの元で、君はいったい?とさもしさで張り裂けそうになる。

ロケの終盤、農家で採れたばかりのパープルアスパラガス、グリーンアスパラガスが当たる電話懸賞が始まった。私は画面に表示された電話番号に、無為に手元のスマートフォンから架電をした。特段アスパラガスが好物という訳ではなく、ましてやラッシャーのロケの影響で食指が動いたのでは勿論ない。むしろラッシャーによってアスパラガスに対しての好意が削がれたと言っても過言ではないのであるが、画面に表示された電話番号に反応してしまった。もしかしたら不意に、このようなタイミングで、欲や邪念が一切ない、晴れやかな、土曜日の晴れた午前にふさわしい穏やかな、大草原のような心持ちで応募をしたら、新鮮なアスパラガスが我が家に届き、火を通しすぎないように最新の注意を払ってボイルする、或いはアルミホイルに包んでフライパンで炙るのもいいだろう、とにかくラッシャーみたく愚かな間違いは犯さずにアスパラガスそのものに秘めたる美味しさを味わい尽くすことができるかもしれない、そのようなチャンスに恵まれるかもしれない、とそこまで考えたわけではなかったけれども、とにかくもしかして抽選20名様の枠に入ってアスパラガス当たったらいいなと思って電話をかけた。〆切の当日14時までに当選の暁には折返しの着信があります、との案内があり、洗濯や掃除を済ませ、しばらくの時が隔て、夕方カレーを煮込んでいる頃に「あ、そういえば何の連絡もなかった」と気づき、落選を知った。電話代数十円が翌月の請求で無為に引かれる。

さほど狙っていたわけでもないアスパラガスの抽選に外れた。だからどうしたという話なのだが、これこそ正真正銘にオーセンティックな「無為」なんじゃないか。無為で血塗られた生活の1ページをファイリングしたにすぎない、このような出来事の積み重ねで人生が幕を閉じるのではないかと思うと不意に涙がこぼれた。いや、こぼれていない。

作家だったりエッセイストだったり物書きの肩書をもった人物が雑誌や新聞で抱えている連載が文庫本になることがあり、このような変哲もない日常を過ごしました、なんなんだ。これは。無駄ですね。後悔。云々。と何気ない日々の切り取りが書き連ねてあって、出版物を作家のファンが購入し、読むわけであるけれども、文章が校正担当や編集者の目を経て、印刷され、書物になり流通し、書店員が棚に並べ、消費者に購入されている時点で真に「無為」ではなくなっている。労働者の手が介入しており、経済が循環しているから。無為について書くことが有為になってしまっている。

無為に「無為」について書こうとすれば、一切波風の立たない場所で誰にも聞こえないようにぶつぶつ呟かないといけない。この記事によって波紋が伸びていくわけではないのは無論承知だけれども、無為というテーマで無為な文章を書くのは、ノートの切れ端にしたためて死んだ後に棺に入れられて焼却されるなど葬り去られなければ本来は成立されないのかもしれず、思惑の一切ない世界で生きようとするならば、土曜日の午前に寝転がるしかないのか。朝だ!生です旅サラダ。「旅サラダ」って何なんだよ。

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