【エッセイ】僕でない僕の神話

 誰も禁じちゃいないけど、なんとなくで遠慮することがよくあった。
 たとえば、給食のおかわりは一日一回。ご飯をおかわりしたら、味噌汁の追加ができないってわけ。余り物のデザートを勝ち取ったら、一週間はおかわりを控えていた。そんなルールないのにさ。
 なんで遠慮したんだろうとか、どうしてデザートにこだわりがあったんだろうとか、それは置いといて。ここで言いたいのは、自分自身に意味わからん縛りを課していたって事実だけ。僕はそれを神話と呼んでいる。なぜなら僕は熱心な無神論者だから。
 この神話は、いわゆる卵の殻みたいな感じ。歳を経て、知識を得て、手足が自由になるにつれて邪魔になってくる。そこで「おりゃ」って拳を打ち出すと、殻は情けない音を立てて瓦解する。隙間から太陽の光が差し込んできたら、ほら、さっきより視界が広がったじゃないか。
 無根拠な神話を打ち砕く。これを「大人になる」という月並みな表現で言い表すこともできるけど、ここではあえて「自分でない自分になる」と書いてみよう。
 余談だけど、人間を構成する細胞は、一年でまるっきり変わってしまうらしい。つまり今の自分と一年後の自分は別人だよってこと。一週間おかわりを我慢してでも手に入れたデザートだって、いつかは時の荒波に溺れてスクラップになるんだぜ。
 これに関しては「テセウスの船」とかいう有名なパラドックスがあるから、興味があるなら調べてくれたまえ。
 閑話休題。「自分でない自分になる」まで戻ってみよう。簡単に言えば、ガキの僕と今の僕は全然違うヒューマンですよってことだ。見た目こそクリソツかも知らんけど、中身は別物。もう全然違うよ。どっちが美味いんだろうね。
 こくごとさんすうだけが全てだったはずの僕は、今や古文や数学、更には裁縫やら料理やらを理解している。両手では数えきれない不条理や、死ぬほど面倒な人間関係も経験したぜ。
 知識を蓄えると同時に、身長も体重も増えた。表現するなら、水をたっぷりと入れた間抜けなゴム風船みたいな感じ。
 多分、まだ自分の中で破綻していない神話はあるんだと思う。それこそ、ヘンテコな常識っていうのかな。今は放置。もう少しだけかくれんぼに付き合ってやるよ。
 今の僕だって、別に窮屈なわけじゃない。むしろ自由だよ。楽しいし。
 でもさ、ガキの僕だって、自分は自由な存在だって思っていたんだよね。楽しかったし、窮屈だなんて滅相もない。それこそ、意味わからん神話だって受け入れていたんだ。
 ふいに考えることがある。あの頃の僕は、なんで神話を生み出したんだろうって。
 
 料理に使う卵は、一人前なら一個まで。そう信じて疑わなかった時期がある。
 結論から言っちゃえば、今は死ぬほど疑っているってこと。一個じゃ足りるわけないじゃん。みんなもそう思うよな。
 この前、卵を四個使って、スクランブルエッグを作ってみたんだ。聞いてくれよ。それでも全然足りなかったんだぜ。贅沢な悩みだよな。命四個食ってんのに。
 四個で足りないなら、一個で足りるわけがない。でも、ガキの僕は満足していた。なんでだろうって思って、ちょちょいと記憶の海を泳いでみた。これでも元水泳部でね。
 すぐに気付いた。家庭科の授業で、「卵は一人一個まで」って教わったんだよ。で、当時の僕は普通に信じちゃった。「卵は一人一個まで」を神話にしちまったわけ。
 昔から聞き分けの良い人間になりたかった。できれば嫌われたくないじゃんね。嫌いたくもないし。だからガキの僕は、なんとなくで遠慮していたんじゃないかなって思っているよ。
 夜が深いね。業務スーパーのデザートを食べよう。誰にも分けてやらないもんね。

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