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クトゥルフ神話とスピリチュアルには親和性があると思う

常々感じていたことなんですが、「クトゥルフ神話」と「スピリチュアル」には親和性があると思っています。

どういうところが似ているのか?ちょっと解説。

クトゥルフ神話とスピリチュアルの類似性
スケールが宇宙かそれ以上

クトゥルフ神話は「宇宙的恐怖(コズミックホラー)」という別名を持っており、登場する神話生物たちは地球の存在ではありません。

中核を成すのは「アザトース」という人格を持たない存在であり、宇宙のその先の闇しかない場所への言及もあります。

神話生物を描写する際に「この次元のものではない」という言葉が使われたり、時には人々を恐れさせる怪物の姿が目に見えないこともあります。(『ダンウィッチの怪』より)

一方のスピリチュアルも、宇宙規模の視点で物事を見ます。

宇宙は「神」「根源(ソース)」などと呼ばれる原初の概念から始まったものであり、その根源的存在は特定の意志を持たないとされています。

この世界には、人間の目に見える3次元の他にも多くの次元が存在しており、次元の違う存在は、3次元の人間の目には基本的に見えません。

地球外生命体が、地球にこっそり住んでいる

海底に眠る大いなるクトゥルフ、深海に住む深きもの、金属を掘るミ=ゴなど、神話生物たちが地球にこっそり住んでいるという設定。

実は、スピリチュアルと共通するところがあるな、と思ったり。

地球にいる知的生命体は人類だけ……と思いきや、実は他の種族やより進化した人類の先輩たちが、身を隠して暮らしていたりする。

次元が違うことが多いから、目に見えないだけなのです。

彼らが人類の前に姿を見せない理由はいろいろあるようですが、「未知の生命体を見つけたと広まったら、十中八九研究所でバラバラにされるから」という理由を読んだ時は申し訳なくなりました。

でも、そうしちゃうんだろうなぁ。

子ども、犬や猫などの動物は大人より霊的感覚が発達していることが多く、時々虚空を見つめていたり、仲良しの「妖精さん」の話をしたりすることもあるようです。うらやましい!

また、特に霊的感覚が強い「霊能者」「ヒーラー」などと呼ばれる人たちは、感覚を研ぎ澄ませることによって霊的存在の気配や声を見聞きすることもできます。

昆虫型の知的生命体がいる

次元をさまようもの、ミ=ゴ、シャッガイからの昆虫など、クトゥルフ神話の神話生物には昆虫っぽい見た目のものがけっこういます。

実は昆虫型の知的生命体(高次元の存在)は実在しているそうです。

読んだのがだいぶ前なので、どこの星の住人か忘れてしまったんですが……。

雑誌に載ってたチャネラーの人で、「巨大なカマキリ型の高次元存在に話しかけられたことがある」という記述を見たことがあります。

最初に見た時はびっくりするそうですが、向こうに害意がないことが伝わってくるから、すぐに怖くなくなるらしい。

私は会ったことがないですが、「害意がないことが伝わってくる」感覚は分かるので、そういうものかなと思っています。

逆にクトゥルフ神話生物たちは人間に対して攻撃的なことが多いので、そこは相違点かもしれませんね。

(別の惑星の存在には、敵意剥き出しの種族もいるらしいので、3次元以外の存在だからといって闇雲に信頼するのは危ないらしい)

信じない人は、とにかく信じない

クトゥルフ神話本編の中では、語り手である「私」は「信じない人」からスタートします。

そんな「私」が様々な怪異を目にして、それが現実のものであると段々受け入れていく、あるいは正気を失ったりする。

その過程を集約したものが、クトゥルフ神話の原作なのかもしれませんね。

スピリチュアルの概念? 世界観? も、信じない人はとにかく信じません。

迷信とか、「俺/私は目に見えるものしか信じない」とか、変な宗教なんじゃないかとか……信じない理由はいろいろ。

でも、とにかく信じない人は一定数います。

そういう人に信じさせようとしても人間関係にひびが入ることが多いし、もう少し前の時代あるいは異なる環境なら精神病院送りの可能性もあったことでしょう。

クトゥルフ神話に接した「私」も精神の異常を疑われることは承知していたようですし、「体験した人にしか信じてもらえない/なかなか信じてもらえないこと」というのは、両者の共通点ではないかと思います。

価値観のパラダイムシフト=SAN値チェック

冒涜的な神話生物の姿を見た探索者は、SAN値チェックを行い正気でいられるかどうかを試します。

神話生物たちの姿はそこまで衝撃的なものであり、探索者がこれまで信じてきた価値観を打ち砕いてしまうのでしょう。

スピリチュアルでも似たようなことが言えるのではないでしょうか。

ただスピリチュアル的な視点で見ると、それはSAN値の減少というより「パラダイムシフト」と呼んだ方が良いかも。

これまで信じてきた価値観「こうあるべき」ということなどが良い意味で崩れて、「もっと自由で良いんだ」と思えること。

それが人生を大きく変えるスイッチになることも、緩やかな変化の始まりになることもあります。

正気と狂気の概念はありませんが、知る前と後、信じる前と後では、明らかに世界を見る目が変わることでしょう。

その点ではクトゥルフ神話とスピリチュアルは共通していると言えそうです。

スピリチュアルと「変な宗教」の違いについて

スピリチュアルに傾倒していくと、大抵の人が身近な人から言われるだろう言葉。

「それって変な宗教じゃないの?」

日本では「宗教」という言葉があまり良い意味で使われることがないイメージ。

欧米や中東のように、大多数の人が信じる特定の宗教があるわけでもなく、みんななんとなく初詣に行き(神道)、お盆に墓参りに行き(仏教)、ハロウィンとクリスマスを祝っています(キリスト教)。

実際、自分の周りに人を集めて宗教めいたことをやっている人は一定数いると思います。

スピリチュアル界隈でも、ビジネス界隈でもいると思います。場所を選びません。

「私の言う通りにしていればなんでも上手くいきます」と言い、教祖のように振る舞う人です。

しかしそれは、本来のスピリチュアルとはかけ離れている、というのが私の所感。

私たちには本来、自分にとって何が最善かを知る羅針盤に似た力が備わっているもの。

心の声や直感と呼ばれるものです。

それを使えば、自分だけの力で、自分に必要なことは何かを決めていくことができます。

指導者・メンター的な人は一時的に必要かもしれないけれど、いつまでもその人に頼っていたら、自分で考える力が育ちません。

指導者・メンターが急にいなくなったら、付き従っていた、自分で何も決められなくなった人たちはどうすれば良いのでしょうか?

それは本来の生き方ではないと思います。

つまり、教祖的な振る舞いをする人は、宗教という形をとっていてもいなくても、結構いろんなところにいます。

それが霊的な面を帯びてくると、途端に「変な宗教ではないか」と言われるようになるわけで、決してスピリチュアルな考えそのものが悪いわけではないのです。

その辺のことは過去記事にも何度か書いていますし、いろんな考えの人がいると思うので、他の文章も参照してみてください。

この話題を万人に受け入れてもらえるように話すのってとても難しくて、私も言葉を選びながら書いています。

文字通り、本当にいろんな考えがあるからです。

私としては、スピリチュアルが目指す最終形って「自分で自分の生きやすい考え方を見つけること」だと思っているので、特定の宗教や人物を批判したりする意図はないことをご了解ください。


共通点を熱く語るはずが、もっと壮大な話になってしまった(n*´ω`*n)

お付き合いいただきありがとうございました。

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