すみません。黙祷ができないんです。

12年前の3月11日、僕たちは中学生だった。

午前中に卒業式があった日で、「あの」時間は部活が始まったばかりだった。


毎年この日になると追悼番組が流れ、トラウマに配慮しつつも「あの日」の映像が流れ、「黙祷を捧げましょう」とお知らせされる。式典もある。

僕たちは黙祷することができない。

それを申し訳なく思う。


僕たちは中学校の校庭であの揺れに遭遇し、学校にいたみんなで集団下校的に帰ることになった。

僕と家の近かった子は驚きのあまり泣いていた。僕たちも泣きだしてしまいたかったのだろう……と、今なら理解している。

だが僕たちは、涙を流す代わりに恐怖を抑圧する方をとってしまった。

「被害の大きさには目を瞑ろう」と言い聞かせ、泣いている級友を慰めながら帰路についた。僕はそのまま1回も泣いていない。

津波の映像を見た。学校がなかなか再開しなかった。余震がきた。学校が再開すると、最初の集会で黙祷が捧げられた。3月11日がくるたびに、黙祷が呼びかけられた。

実はずっと「この日」から逃げていたいと思っていた。

この日が近づくと、増えてくる追悼番組の予告で気持ちがざわついてくる。
それがなぜなのか久しく分からなかったのだけれど、津波記念館に行った1年ほど前にようやく理由が知れた。僕たちは恐怖を抑圧し続けているのだ。

記念館でひしゃげた消防車を見た時、「あの日」へのフラッシュバックが起きてその場に座りこんでしまいそうになった。
僕たちの中には「あの日」を経験し、恐怖と一緒に記憶をしまいこんでいる人格がいる。
その子がトリガーされてしまって、一気に「あの日」に戻ってしまって、施設の中でとても具合が悪くなった。

3月は何度も恐怖を喚起する。僕たちはそれを申し訳ないと思う。

僕たちは、ただ揺さぶられただけだから。

トラウマに優劣がないのは理解している。誰が最も重いとか、あなたは軽いとか、そうやって心的外傷を矮小化すべきではない。

それでも僕たちは揺さぶられただけだ。食器が割れただけ。
居住地に帰れなくなることも、海が押し寄せてくることもなかった。そんな僕たちが「怖い。黙祷もできない」なんて、言ってはいけないのではないか。

「経験した世代」として、毎年何かを語らなければならないのではないか。

毎年のように起きる葛藤と戦いながら、僕たちは今年も黙祷をしなかった。


もちろん、忘れてはいけない出来事だと思う。災害も、人災も、そこで起きた悲しいことの何もかも。

けれども起こってくるいろんな感情や回避したい気持ちにフタをしてまで、この出来事に心を寄せる人全員が黙祷を捧げるべきだとは思えない。

申し訳ないけれど何も話せない、掘り起こすことができないというのも、出来事を持ち続けている態度のひとつだと思うから。


回避と、逆光する者の記録として。

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