見出し画像

記憶することと、忘却と、死

生者の記憶から死者の記憶が消えれば、死者は存在ごと消滅する。

こんな概念を最初に知ったのは、確か「ライトニングリターンズ FINAL FANTASY13」の中でだったと思う。

以来この視点は、私の中での真理になった。
なぜ、という心の動きを詳細に説明することは難しいからできないけれど、その時の私の何かに触れて、「ああそうだな」と思ったのだ。

忘却されることによる完全な消滅という概念は、気づくといろいろな作品の中に登場する。

「リメンバー・ミー」では大きなテーマのひとつになっているし、
「葬送のフリーレン」は先に亡くなった勇者を追想しながら進むエルフが主人公だ。

現実世界においても、人類は過去を忘れまいと力を尽くしつづけている。
戦争や災害を「わすれない」をテーマに話題にし、決定的な日にはどこかに集まって祈り、本を書き、語り部は記憶を繰り返し語る。

記憶ーーそこに生きていた大事な誰かのことも含むーーを語るをいうことは、「誰か」「そこで起きた何か」を認識する人物を増やす行為であると同時に、語り手の記憶を呼び起こす装置としても機能しているのではないだろうか。

学習の忘却曲線は、繰り返し学習することによって緩やかな角度になる。
記憶の忘却もそれと同じで、何回思い出すかが、記憶の持続に関係するのではないかと思う。

コロナで亡くなった志村けんさんが、「まだ生きているような気がする」というツイートを以前見かけた。
それは志村さんがみんなの記憶に印象深くのこっていて、思い出される機会が豊富だからなのだろう。
存在は死んだ後も、誰かの記憶の中で生き続けることができる。

それってとても壮大なことではないだろうか。

私は誰の、何のことを生かし続けることにしようか。
私は誰に生かされるだろうか。



Jessie Somerled

読んでくださりありがとうございます。良い記事だな、役に立ったなと思ったら、ぜひサポートしていただけると喜びます。 いただいたサポートは書き続けていくための軍資金等として大切に使わせていただきます。