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6年前に触れた「声を出す意味」

 もう6年も前のことになる。別のところで書いていた呼吸のワーク日記。

 このころのワークは先生が法人から独立した直後で、私自身もワークを続ける場を確保しておきたくて、どんな形がいいのかをいろいろ模索していた時期だった。

 今でも読み返すと、すごいこと書いてるなあと思う。

 合唱団を長くやっていた私にとって、音楽は「何かを伝えるためにやるもの」で、「伝えたいことをどうやったら伝わるかを考え抜いてその形を作り」、「どんな状況でもステージ上でそれが再現できるように練習を繰り返して作り上げる」ものだった。

 しかし先生は違う視点だった。「歌の練習はしない」「発声練習は必要ない」と言う。

 声もそれで歌う歌も必要性がある場面で体は必要なことをやってくれる。だから聴く人もおらず、声を出す必然性もない時に練習や発声をしても体が必然性を感じていないから意味がないと。

 当時の私はその部分に心底では納得できていなかった。(今も本当にわかっているのかどうかは怪しいかもしれないのだけど)

 自分の体との対話を深める呼吸とその息に乗せ放たれる声の表現を突き詰める表現は、裏返すと自分が何を伝えたいか、そのためにはどう表現するかを意識しないもののようにも思えて、自己満足で終わる可能性はもちろんのこと、例えば、何かのきっかけで自分が思ってもみなかったような影響を他者に与えてしまって、それが良くない方向への流れを強めてしまったりしたら?

 どんなに注意を払って表現してもそうなってしまう可能性は0ではないとはいえ、自分がこう伝えたいということに意識を向けていないように見えるそのやり方について、納得のいく答えを見つけられてはいなかった。

 そのことへの自分なりの答えの手がかりを見つけたような瞬間だったように思う。

 今の私はいろいろなことを経て、一周回って同じところに戻ってきているような気もしつつ、同じように見えて決して同じではない地点に立っているような気がしています。

 すごく長くなってしまいましたが、よかったら読んでください。


【呼吸のワーク日記】(2018.9.1)

「自分の身体の中心に集めた呼吸のエネルギーを社会に還元するのが声」

今日の私はこの言葉に拓かれた。

前回参加してくださった新しい方が、お友達を誘ってご参加くださり、経験者4名を加えて6名。
講師を含めると7名には、またまた会場が狭い!

新しい方もいらっしゃるので、基礎的なワークを丁寧に、経験者ばかりだとあえてしない説明もいつもより多く、しっかりやる。上半身、足の感覚を確かめながら、自分の身体の中心に呼吸の流れを集める感覚を味わう。

そこからエネルギーを背骨を通して流していく。

最初はパートナーの手で背中を呼吸が行き来する感じを確かめ、それを自分自身で感じることができるのが声だということで、呼吸の流れに声を乗せてみる。

どこにも力を入れていないのに、豊かな声が響きあう。

その時に言われた言葉。「声は自分のエネルギーを社会に向かって表現していく方法。」

この呼吸法をやっていて、私がずっと引っかかっていたこと、自分との対話を深めていくことの先には、自分の出した声や表現がどのような影響を周囲に与えようとも関知しない、それはただの結果に過ぎないということになるのではないかということに、一つのヒントが与えられたような気がした。

本当の表現につながるものは声を出す前にあるのだ。自分の中に集められたエネルギーには、これまでに生きてきた自分のすべてのこと、今、ここにある自分のコンディションや周囲の環境、未来に向かう自分の思い、それらがすべて含まれている。出された声がどういう影響を与えてほしいとか、そうした思いも当然含まれているのだ。

だからこそ、声の形を作為するのではなく、そのエネルギーの中に含まれる、こうあってほしいという思いにも自分の身体、呼吸が応えてくれることを信じて、「今」に委ねる。

講師がずっと言い続けている、歌の練習をしないという意味もこういうことなのかなと思う。

それは、ただ自分の思いを発散すればそれでいいというのとは違う。

練習で外側の形を整えるのではなくて、むしろ声を出す前の自分の生活、大きく言えば生きていることすべての中に、その音楽をどう奏でたいかとか、これを歌うことによって聴く人や社会にどういう影響を与えたいかというような自分の思いがすでにあるはず。

歌うという行為の瞬間にはその声が出てくるということにどれだけ委ねられるか、それを綺麗な声かどうかでジャッジせず、受け入れることができるかなのではないかなあ。

ワーク終了時に、私の心の中には「声を出すことに、意味はある!」という言葉が響き、無性に歌いたいと思った。


写真はwriter1623kitaさんの写真を使わせていただきました。
6年前のワーク日記に載せた写真もひまわりの花で、オリジナルが見当たらず、何気なくフォトギャラリーを見たら最初に出てきた画像でひまわりの花を持つかわいい犬や猫の像に惹かれました。
当時は花を主体にした写真でしたが、今、振り返っていろいろ思いに浸っていることを表現するには像がひまわりの花を持って佇んでいる方が合っているかなと思いました。
かわいい写真をありがとうございます。

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