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【呼吸のワーク日記】(2022.11.20)


 私は7年ほど前から、2週間に1回のペースで呼吸のワークショップを受けています。

 元々は、ずっと休止していた「合唱団で歌うこと」に復帰することを考え始めた時、癖のある発声法を見直すために始めたのですが、ワークを続けるうちにそれにとどまらない、自分自身から発する表現をする土台としての呼吸のワークに惹かれて、ワークを続けてきました。

 「呼吸法」というと、長さや回数が決められて、それに合わせて吸ったり吐いたりすることを求められたり、ダイエットとか健康法といった「目的」のために呼吸の仕方を見直すという、外側にある理想像に向けて、自分の呼吸を合わせていくというのがほとんどですが、今、私が受けているのは、呼吸の仕方を指示しない、呼吸はただ個々の体の中にあって命を守るために必要な動きをしているもの、体の声を聞いて、無駄な緊張や力を全て取り去ったところに立ち昇ってくるエネルギーを信じることをやっています。

 以前は対面で会場を借りてグループワークで行っていましたが、この状況下でオンラインになり、やり方も試行錯誤しながら、今は結局、個人セッションとワークショップを合体のような形でやるようになり、今に至っています。

 数年前から毎回のワーク日記を他の媒体に書いてきましたが、どこかでこのnoteにも書きたいなと思っていました。

 ただ、同じことを書いても仕方ないし、元々の媒体で書いていたものには今までどおり直後に「日記」という形で書き、こちらにはその中で思ったこととかを抽出する形で書こうかなと思いながら、2種類の文章を書く時間やエネルギーはなかなか確保できずで、noteでの書き出しにはなかなか踏み切れずにいました。

 今日、オンラインワークショップをやってみて、とりあえず同じものでもいいかなと思い、今日の日記を載せてみます。

 これから毎回載せるか、別の形を考えるか、何も考えずにとりあえずやってみるというところが私らしいですが、よろしかったら読んでください。

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【呼吸のワーク日記】(2022.11.20)

 オンラインワークショップは午後からだったのだが、午前中から自分の中ではワークが始まっていた。

 朝起きて、曇り空の静かな空気の中に身を置いていると、この空気の中のあるすべてのものをそのまま録音して配信できたらもうそれだけでいいのでは。取り立てて何か言葉を発しなければならないという強い思いがあるのでなかったら、この空気の中に無理やり自分が何か「発信のための発信」などする必要はないのではないかという思いでただ静かに時を過ごす。

 良くない方向に傾くとそれは「自分の存在そのものがこの世に必要ないのではないか」と言った自己卑下にも繋がってしまいそうだが、それでも今ここには自分の体というものが他のものと明確に区分されてここにある。そのことの答えを探していたように思う。

 多分無意識のうちに自分の仙骨に手をやっていた。手から伝わる温かさが気持ちいいなあと思っていたらだんだん仙骨が活発に動くようになり、そこからじわじわと骨盤全体、内臓、手足と体の中に活力が広がっていくような感じがした。

 何も形として発信しないことが無価値なのではない。「存在自体が表現であり価値があるのだ」言葉にすると少し違う感覚のような気もするのだが、私が私としてここに在る、そのことにきっと何かの意味があるのだということを信じていいような気がしてきた。

 先生のガイドなしで、自分の体の声を聞くやり方を見つけて今の自分なりの答えが出せたことが何だか嬉しくて、曇り空の空気の中でも気持ちは明るくワクワクしている。

 そんな感じでオンラインワークショップに入ると、最初から先生に「今日は声の出方が違う」と言われる。パソコンでの音量をいつもの半分ぐらいにしても十分に聞こえるとのこと。

 午前中に起きたことなどを話しながらもう勝手に動いてしまう。

 このところはもう、先生に言われる前に動き出してしまうのも茶飯事。先生はそれを見ながら、私が気が済むまで動いて止まるまで待っていてくれる。

 動きが止まって、こんな感じだったとかいう言葉でのフィードバックもして、さて次は何をしようかなというタイミングで「こんな動きをやってみませんか」とガイドしてくださる。

 その動きもやっていくうちに体がその幅や方向をガイドを超えて動いていたり、直接動かした体の部分と繋がる別の部分が勝手に動き出したり。

 そうかと思うと小さな動きが波のように体の中を大きく動かしてきたり、波紋が穏やかに静まるのを待ち、そこからもう一つ小さな動きで体が「落ち着く」のを実感したりと、体の声を聞き、それをまた言葉にしてみたりという時間が混ざり合う。

 左側でやっていた動きの感覚を味わい切って右側に移るつもりだったのに、無意識に、思っていたよりずっと早く右側に移っていたことがあった。

 しかもいつも安定して手を置く場所とは少しずれていて、ちょっと不安定な感じがあった。それでもしばらくそのまま味わっていてやはり不安定さが気になって手の位置をずらした。

 いつもの安定を得てほっとした気がしてしばらくそれを味わっていたが、ふと、さっきの数センチの差で体の感覚はどう違うのだろうと思い、もう一度最初に手を置いた位置に戻してみた。

 体の中の繋がる場所などの感覚がやはり違う。でもそれは間違って手の位置がずれてしまったのではなく、きっとこのタイミングで体はそこを求めたのだと思った。

 理屈では説明できないし、理屈で考えていたら反応できない部分に体が反応したのだと思う。

 そういうことが少しずつできるようになってきた気がするのは少し成長したのかなあ。

 今日も本当に楽しい時間。予定通り(?)規定時間は大幅に超過(笑)。

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