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言葉にできないものを言葉にしないままでもいいのでは?

 先日、映画「土を喰らう十二ヶ月」がWOWOWで放送されているのに遭遇しました。

 映画館で見る機会を逸してしまい、見たいなあと思っていたのですが、何気なく番組表を眺めていたらちょうど5分くらい前から始まっているのを見つけ、WOWOWに入っていてくれたパートナーに感謝しながら(笑)見ることにしました。

 その中で、主人公が口減らしのために出された禅寺で精進料理を教わっている時の回想シーンで、主人公が和尚さんと共に筍を掘り出すシーンがありました。

 ほとんど土の中に隠れている筍を鍬を入れて掘り上げた瞬間の映像ー掘り上げられた筍のクローズアップーを見た時、ふと人間の働きかけでこの筍を掘り上げるという人間から見た視点ではなく、もっと大きなところから俯瞰して見れば、人間が筍を掘り出すのも、鳥が地中の虫を啄むのも変わらないのではないかというような感覚にとらわれました。

 その時の感覚がうまく言葉にできなくて「自然」とか「世界」とかという言葉もしっくりこない、「宇宙」というのもまた違う。そんなモヤモヤをしばらく抱えていました。

 そんな中で、昨日、稲葉俊郎さんの「ことばのくすり」を読んでいた時、「呼吸」を「気の食」ととらえている文章に出会いました。

 呼吸についてそういう捉え方もできるなと思ったら、呼吸のワークの先生からここ数年問いかけられているテーマ、呼吸のワークをやっているのを見た子どもから「今何をやっているの?」と尋ねられたら何と答えますか?ということに繋がっていきました。

 ワークの先生は「呼吸」ということばも使いたくないと言います。言葉で名付けられることによって言葉の「意味」の範囲に限定されてしまう。本当の呼吸はそんな狭いものにとらわれない、もっと大きな広がりを持ったものだと。

 「今、何をやっているの?」という子どもの問いへの私自身の答えはまだ出ていないけれど、映画と本とワークの問いの3つが結びついた時、浮かんできた言葉は「何でもいいじゃん!」でした。

 決して投げやりな気持ちではなく、今は言葉にできないものはできないまま、そのことを自分の中に置いておこう。

 いつかそれが何かと結びついて言葉になる瞬間があるかもしれないし、言葉にはならないまま、自分の何かの土台になっていくかもしれない。

 何にもならなかったとしてもそれはそれでいい。そんな気がしてきました。

 出会ったということは、それこそ言葉にはならず、自分の意識さえしないところで自分の何かに影響を与えているのだろうと思います。

 無理して言葉にしなくてもいい。意味付けしなくていい。出会った一瞬に何か心に留まるものがあったことはきっと自分の何かに繋がっていく。それでいいのではないかなと思った七夕の翌朝です。

 


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