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"生まれた星"ガチャ

まず始めに言っておく。自分は同世代の日本国民のなかでも信じられないほど恵まれていると思う。両親は姉と私を中学受験させて中高一貫校に通わせるだけの収入を得ており、家族仲もそこまで悪くなく、私が困っていたら手を差し伸べてくれる。友人を見ていてもだいたい彼らの親は医師、官僚、経営者、エリート会社員で、いいところに住んでいて、親が離婚しているのも2件しか見たことがない。親子そろって東大なんて何にも珍しいことではない。受験で失敗したこともないし、就職も誰もが知るグローバルトップ企業。ちょくちょく人間関係で悩んだことはあるもののみんな体験するような、学歴が高い人ほどおおらかなものでいじめられた記憶もなく、周りの人にも恵まれた。大切な人を失ったこともない。差別を受けたこともない。

…自分で書いていても、信じられないくらい恵まれていると感じる。もちろん恵まれているか否かの尺度については本当に数えきれないくらいあるのは承知していて、あくまで主観性を抜ききることはできないが、それにしても、である。

では、私をこの立場たらしめたのは何なのだろうか。100%のうちいくつがXXの要因で、と定量評価はできないしミスリーディングになるので控えるが、私の生まれた星がたまたま良かった、というのが、本当に偽らざる事実であると思う。もちろん、中高や大学の同級生よりも受験や就職がうまくいったという仮定のもとで話すと、私自身の努力も大きな必要要件だと思うが、そんなのほんの誤差みたいなものである。

今の日本は、いや世界は、生まれた星ガチャで人生がほぼ決まってしまうのではないだろうか。それって、実はすごく悲しくて、不合理なんじゃないだろうか。

最近、アメリカで起こった黒人男性の警察による行いが議論を巻き起こしている。その一連の報道や、黒人差別の歴史を学ぶなかで、肌の色が違うだけでこれだけ不合理が生まれ、そして長い間解決されていないかに本当にショックを受けてしまった。何というか、腹の底から違和感を感じるようなショックだった。身体が受け付けないというか、え、それおかしすぎね?みたいな。WhiteとAfrican Americanで決定的な違いは肌の色しかないわけで、IQ等に差がないことは科学的に証明されている。なのに、なぜこれだけ大きな社会的差異が許されていいのか。そんなわけあるはずないだろう。同じ人なんだから。


そもそも私は、社会的にグルーピングした時にマイノリティ側にカテゴライズされ、多数派の意見を汲んで作られた社会により弱い立場に置かれた人を"弱者"と呼ぶことに、ずっと抵抗がある。それは社会が作り出したもので、本来その人たちは私たちと同じくらい強い生命力と、生に対する尊厳があるはずなのだから。しかし、結果的に社会的に弱い立場に置かれているという客観的事実はあるので、以後は"弱い立場の人"という言葉を便宜上使うことにする。


まぁまた話がそれたのだが、少なくとも私が自分自身のことを弱者だと思ったことはない。唯一、女性という部分がハンデになりえたのかもしれないが、強い女を育てる中高一貫の女子高で鍛え上げられるとそりゃ戦闘力も半端なく、男どもも震え上がるような強い人間が完成したので、それも私の場合ネックにはなっていない。少なくとも今のところ。就活も、女子採用枠ではなく能力枠で採用されたと信じている。

以上のような理由から、私は自分自身のことを、客観的事実として「強者」であると認識している。

ずっとここ数年ぼんやり考えながらまったく答えの出ない問いがある。それは、「"強い立場"にいる自分が"弱い立場"の人に手を差し出すことは正義なのか」である。

先ほどの問をもう少しブレイクダウンすると、私が誰かに手を差し伸べるとき、私はその相手を自分より恵まれていない、弱い人だと考えていて、それは非常におこがましい行いなのではないか、その差し出している手はすごく汚いものなんじゃないか、手を出された方はどのようなまなざしで私を見るのだろうか、ということである。

また、「差し出す手があって、差し出すことで相手が助けられることも認識しておきながら手を差し出さないことは、罪なのではないか」というのも、自分のなかで葛藤し続けている問である。

結局、行いの正しさは、それを受け取る側が幸せになったかどうかにおいて規定されるものだと思うので、このこと自体を抽象的に論じることはイシューとして妥当ではない。(書きながら気づいた)。ということで1つ、私がずっと葛藤を抱える実際のケースで考えてみる。

私は、高校3年生の最終授業、受験直前のタイミングで数学の塾の先生が言っていたことが忘れられない。「日本の子どものうち7人に1人が貧困である」と。しばらくは忘れていたのだが、ある日突然ふと思い出してから、ずっと頭にこびりついて離れなくなった。私はいま、経済的に非常に恵まれていて、大学生バイトの分際で、適当に仕事をして月20万円かせいでいる。高い肉を食べるのが好きで、親もしないような豪華な暮らしぶりをしていると自分でもわかっている。正直、キラキラした体験とかも好きだし、生活レベルを下げたくないなと感じてしまう。こんな立場の人間が、生活に困る子供たちに手を差し伸べるとしたら、彼らを下に見てしまうのではないか。いや、すでに心の底で下に見てしまっているんだろう。彼らのおかれた社会環境に強い怒りと違和感を覚える自分と、無意識に彼らを下に見ているかもしれない自分はどうやったら同居できるのだろうか。

そして、豪華な暮らしを手放したくないと思う自分が差し出す手に、そこに正義はあるのだろうか。というかそもそも正義ってなんだ。自分の生まれた星がたまたま良かったからこの幸せを享受しているのだとわかっていながら、差し伸べる手を持っていながら、少ししか手を差し出さず、自分の身を守り続けるのは、見えないものから目をそらしている、すごく罪なんじゃないだろうか。

現状としては、私の持つ違和感をどれだけの大きさのものとして背負い込むかは別だが、見てしまった以上この課題について考えたいし、考えなくてはいけないと思っている。"生まれた星"で一生が決まってしまうようなことは絶対に正しいことではないのだから。

最近たまたま、姉に「自分をそんなに犠牲にせず、大事にしてほしい」と言われた。最近そこに答えの種が隠れている気がしている。確かに私は、自分が大事な存在であるという自己認識がかなり薄いのではないかなと思っている。他人から攻撃されるとあれだけdefensiveになるけれど、極論言うとわたしは自己がこの世に存在する意味はあってないようなものだと思っている節があるし、私がこの世に存在する価値はあるのだろうかとか考えてしまうことがよくある。

でも、実は私はこんなに周囲の辛さを引き受ける必要はなくて、もっと自分が幸せになる道を、もっとわがままを言って貫き通していいのかもしれない。最後の2段落、大幅に脱線したが、答えがちらりと見えた気がする。