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最初からプールにこないのであれば

刺すような陽が延びて、蝉の声以外音のしないような静かな夏の空間を歩いていると、僕の意識は中学生の夏休みに戻される。

中学三年の夏。まだ紫陽花が咲いているような時期に、中学校では体育の水泳が始まる。
僕にとっては絶望でしかない。水泳は人生のうちで嫌いなもののトップ3には確実に入る。
その頃も、うきうきする生徒も居る一方で、陰鬱とした気持ちのまま水泳の授業に参加していた。

僕が水泳を嫌うのは小学生の頃からだった。別にプールや水は嫌いではないが、水泳という概念が嫌いだった。なぜ人に見られる中でわざわざほぼ裸で泳がなければならないのか。そもそも何故、水の上を行ったり来たりしなければならないのか。泳ぐ意味がわからない。
次第に泳ぎ方も分からなくなり、興味も関心も無くなり、15メートルで精一杯になったのが小学校五年生の頃。しっかり補習を受けるメンバーに入っていた。

何でそこまで泳げないのかと言われても、泳ぐ意味も分からず、泳ぎ方もわからず、ただ苦しいだけだからやる気がない。海に行けないぞ、と言われても、別に海に行かないから良い。行っても泳がずに海をただ見る。津波が来たら泳げないと困るぞと言われても、津波が来たら濁流に飲まれて皆泳げないだろう、と思う。

中学三年の水泳でも同じスタンスだった。もうそれは頑なにやる気がなく、でも補習も面倒だから本気を出してみるか、とやってみても15メートル以降体も脳も拒否している。
ついに、水泳を避けるために、脳と体が合理的な判断をとって、ほかの場所で運良く怪我した。別に意図的に怪我した訳では無い。
そして授業では見学する。水中で楽しそうにしている皆に、遠目から話しかけて、水をこちらへ散らされたりして、わいわいとする。

そのとき、同じく見学していた少年Kが居た。その子は僕と全く同じ思考を持っていて、小学生の頃から、僕と同じように補習を受けてきた。小学五年生の補習のときも、一緒に泳いだ。
休日もよく遊ぶ友達で、夏休みになると、二人でいかに宿題をサボってかつ効率的にするかということを議論していた。

僕もKも、泳げない上に見学までしているから、もちろん補習が決定した。普通なら、ある程度泳げるようになるまでみっちり練習だが、先生にもそんな余裕は無いし、中学三年で受験もあるからと言って、見学時測定を逃した、平泳ぎと背泳ぎのタイムを測るだけでいいということだった。

夏休み、僕はずっと暗い気持ちでいた。水泳の補習にどうしても行きたくない。
補習を受けるのは僕らだけではなく、あと数人居た。それぞれ予定もあるだろうからと言って、この日からこの日までの間のどれか一日に来い、という命令だった。
学校に行ったら、そこでは一二年生が部活をしているだろう……。水泳部だって、部活をしているだろう……。
暑い朝起きて、わざわざ着替えて、先生の前で泳げもしない平泳ぎをして、濡れた髪のまま学校の横を通って帰る。
なんという恥辱。

そこで、僕はKと、ある一日に待ち合わせして、一緒に行こう、ということで話をつけた。彼は怠惰を極めたような男であるので、彼の家の前まで僕がいくから、昼になったら出てこい、という約束だった。

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当日。もう朝目覚めた時から気持ちが悪い。朝日が鬱陶しい。プールにわざわざ行き平泳ぎの屈辱を浴びせられる。ただそのためだけに早く起き。いつもなら夕方まで寝ているのに。
しかしここを乗り切ったら人生のうちで水泳は最後(高校では水泳の授業はないから)、しかも僕一人だけではない、彼も一緒にいる。ここをなんとか凌いだらこっちのものだ。

そう思い立って、ずっと「嫌だ嫌だ」と口ずさみながら、自転車を漕いで、Kの住む家の近くの十字路で待つ。

当時スマホなどという文明の利器はお互いに所持していなかったから、僕はもうひたすらに、時計を見ながら待つだけだった。
実際、いつも遊ぶ時は彼が僕の家にきて遊んでいたため、僕は彼の家を知らなかった。アパート自体は知っていたが、そのどこの部屋なのかまでは分からない。
10分ほど待つ。遅いなあと思う。
30分ほど待つ。遅いなあと思う。
彼は時間にルーズなので、僕もそれ位は余裕で想定している。
1時間待つ。流石に遅すぎる。
僕は11時にその待ち合わせ場所に向かっていた。しかし一時間待っても来ないから、もう昼のチャイムが鳴っていた。

お腹が空く。
昼までに終わらせて午後はその流れで遊ぼうと思っていた。しかしこうなると、困る。お昼ご飯は家までかえらないと無い。この位置からだと圧倒的に学校へ行く方が近い。
今すぐにでも行きたいが、昼時に行くと先生がお昼ご飯を食べていて時間が合わない可能性がある。じゃあ1時過ぎ頃がいいだろうか。

色々と考えながら、自転車で近くをぐるぐると周り、ふらっとKが出てこないかと待つ。永遠に出てこない。
頭の中でKの言葉と顔が蘇る。
「じゃあ補習一緒に行こう!決まり!」
そう言い出したのはKの方だった。快活で、水泳という絶対悪の元で共謀する、悪い笑顔で、二人とも誓ったはずだった。

永遠に出てこない。
彼は死んだんじゃないか、とここで考える。彼は新型インフルエンザにかかったあと、従来のインフルエンザにかかった(つまり、A型もB型も)、病弱のスペシャリストでもある。別に死んだと言われても納得できる。
別に死なれてもいいが今死なれると困る。一人で水泳に行かなくちゃいけなくなる。もし死ぬなら補習を一緒に受けてから死んでくれ……。

ぶつぶつと言っていたら、時計は既に一時を過ぎていた。
外の暑い中、自転車に乗ったまま、二時間も待っていられる自分に少しびっくりする。余程水泳が嫌いなのだ。
そしてこの時間があれば、補習数十回分できる、と思う。そんなにしたくないけれど。

とうとうここで僕は思い至る。一人で行けばいいじゃないか、と。もうKはいい。あとで殺しておけばいい。もしくは一人で補習に行って同じように苦しめ。

僕は学校に向かう。出来るだけ人に見られないようにして、遠回りをしながら学校に行く。なぜ人に見られたくないかというと、「久しぶり〜!今日学校?」などとすれ違う生徒に言われてしまえば、補習だとバレてしまうからである。水泳が嫌いなキャラはもう浸透していたから別に恥ずかしいことではなかったが、だからといって知られたい事でもない。

わざわざ遠回りしたにも関わらず、想定通りグラウンドでは野球部が練習している。ここで三年生が何故か水泳道具を持って自転車に乗っていると不審に思うだろう……などと考えながら、一旦引き下がる。
一旦下がってから、急に、こんこんと湧き出る感情があった。

水泳が嫌だ。

アレルギーのように、ここでまた水泳が嫌症候群が始まってしまった。こうなってしまっては長い。
今からプールに行ったら、水泳部がいて……お断りして測定して……いや、まず先生がいなかったら補習すら出来ない。ああ、補習が嫌だ……ここにKがいたら……いや、本当はいるはずなのに……Kのやつ……。
うじうじしていられない、行こう!……でもやっぱり水泳が嫌だ……。

そう言って、僕は一進一退を繰り返し、なんと時刻は三時になっていた。

さすがに3時はまずい、と思って、よし、と振り切ってプールに向かうと、その周辺に先生が居た。
「遅い!!!!!」
大声で言われた。怒られた、と思ったが、意外と先生の表情が怒っている顔ではなかったから、これはいける、と思った。
「すいませ〜ん」
「はよ着替えろ、俺もそんなに時間無いから」
「は〜い」
はたはたと走って更衣室に入り、着替えて、プールに上がる。

予想通り、水泳部の皆様がいる。
「今からちょっと端の方で体育の補習やるから。ごめんな、向こうでそのまま練習してていいから」
先生が水泳部に言う。この15メートル選手の横で練習をするのか。
水泳部の中には知り合いの後輩もちらほらいて、からかってくる視線を送ってきたが、悪意はそこにはなく、ややほっとした。

そこからは地獄だった。
しかし、水泳部と先生以外の人物がおらず、衆人環視の元ではない分、随分楽だった。たった一人の目を欺けばいいのだから、恥も四十分の一である。
平泳ぎはあまりに泳げないため、先生に苦笑いされながら「じゃあクロールでいいぞ」と言われるも、クロールも出来なさすぎるため、50メートル先で待つ先生が耐えきれず「じゃあ歩いていいから!もう走れ!」と言われた。

少なくとも水泳ではない。市民プールの端で水中を歩く、エクササイズを楽しむ貴婦人のごとく、ゆったりとした歩調で50mまでなんとかたどり着く。

続いて背泳ぎは、僕がもうどれ位のスペックか計られているため、25メートルでいいよと言われる。背泳ぎはなんとか出来ると思っていたが、非常にゆっくりしたスピードで、1分50秒ほどかけて25メートルに着く。歩いた方が速い。

測り終わって、先生に笑われながら、
「お前ほんとに水泳嫌いなんやな」
と言われた。枕詞のように、反射的に、
「死ぬほど嫌いです」
と言った。こつんと叩かれたが、別に悪い気はしなかった。

​───────​───────

夏休み明け、学校に行って、まずKの元に怒鳴りにゆく。どういう事情があったのかを聞かなければならない。
「お前何で補習のとき来んかったん?」
Kは、宿題を忘れた時に先生によく見せる、真面目で反省しているように見せかけて全く反省していない顔を見せた。
「あの時釣り行ってた。完全に忘れとった」
ガハハと笑う。釣り。お前に約束という言葉は存在しないのか。しかも水泳が嫌なのに海に行くな。紛らわしい。
「俺なんか一人で行ったんやぞ、一人で」
「うわ、偉いな」
まるで他人事のようだ。
「お前結局行ったの?」
「行くわけないやん」
顔のとおりやはり反省していない。

水泳が嫌いという点を同じくしていたから、結局すぐにその件は流れて、僕がひとりで補習を受けたというネタだけが残った。
後からその体育教師に尋ねてみると、補習に該当する生徒の中で実際補習に来た生徒は僕だけという事だった。Kだけではなく他の人も同じようにサボっていたということだ。
僕は冗談で、その来てない生徒、特にKとかの成績をどんどん下げてくださいよ、と頼んだが、
「でもお前の泳ぎも泳ぎだから。来たんは偉いけど」
言い返す言葉はなかった。全くその通りである。

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Kを待ち、外でぶらぶらと待っている時間、ただひたすらに蝉が鳴いていたことを覚えている。
静かだった。そしてかなり鬱陶しい陽射しだった。

それが強く記憶に残っているせいで、静かな夏の暑い日になると、よくその日にタイムスリップする。僕が誰かを待っていて、その誰かは釣りにでも出かけているような。僕がどこかで踏ん切りを付けて一人でどこかへ向かわないといけないような。そんな気持ちでいっぱいになる。

あの日、最初からあいつが、一緒に行こうなんて言わなかったら、最初から補習になんて行かなかった。現に行ってない人が多くいたのだから。行かなくて良いなら確実に行っていない。
そして、最初から釣りに行くと決めていて、それを僕が知っていて、あいつがプールにこないと分かっていれば、さっさと家に帰ってお昼ご飯を食べて寝ていた。

でも、あの日Kが僕を誘ったから、一人で、水中を徒歩することになった。
今、日差しを浴びてその日に戻ってしまうのも、そのいい加減な提案があったからだろう。

そう思うと、別にKは悪くなかったのかな、なんて考えてしまって、五年もたった今になって、妙に腹が立ってくる。今からでも遅くないから、K一人で補習に行って恥を覚えればいい。僕は持っていない釣り竿でそのとき釣りに出かけるから。

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