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読書 Ⅰ 短歌⑥(後)

本棚の目の前に布団を敷いて寝ている。地震がきてぱたんと倒れたら、本で即死することになる。望むところだ。

〈前〉
①フラワーしげる『ビットとデシベル』(2015、書肆侃侃房)
②土岐友浩『Bootleg』(2015、同上)
③嶋田さくらこ『やさしいぴあの』(2013、同)
④鯨井可菜子『タンジブル』(2013、同)
→https://note.mu/jellyfish1118/n/ne28bd32adafe

〈後〉
⑤山田航『水に沈む羊』(2016、港の人)
⑥佐藤涼子『Midnight Sun』(2016、書肆侃侃房)
⑦原田彩加『黄色いボート』(2016、同上)
⑧笹井宏之『八月のフルート奏者』(2013、同上)

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⑤山田航『水に沈む羊』

僕の名前に洋という文字が入っていて、その字がいつか、「水没した羊みたいですね」と言われたことがあり、それ以来というもの、羊っぽいですねと言われることが時たまある。
だからなのか、妙にこの歌集がずっと引っかかっていて、この題名は買う宿命にあるのではないかと思い、とうとう購入した。この紙の感じが水そのもののようで、触り心地が良い。それだけで買ってよかったなと思う。

口語で旧仮名。しとしとと水が滴るような感覚がした。

鉄塔の見える草原ぼくたちは始められないから終はれない(辺境. 鉄塔の見える草原)

この歌は一ページに一首だけ書かれている。一ページ一首って、なかなか思い切りがいるなと思う。その余白に耐えかねるような歌でなければ置けない。歌への信頼と自信が要る。
そしてこの歌はそれをしっかりと持って、後押しされた一首だと感じた。見たときにおおっと、ぞくぞくとした。自信を感じた。読者として、作者一押しのものを一押しとして読めて嬉しかった。

縦にも横にも広がる草原の中で、屹立する鉄塔。草原のうちに鉄塔が見えるのではなく、「鉄塔の見える草原」という把握が心地いい。
始まるから終わるのであって、始まらなければ終わりは来ない。終わり、というと哀しい響きがあるが、ここでの主体は終わりたい。終わりたいのに、始められない。
この歌が具体的に何かを言おうとしているのかもしれないが、そこまでは分からない。漠然と、始められない苦しさと、終われないもどかしさだけが残る。なすすべもなく広がる草原。鉄塔も少しだけ寂しく見えてくる。

しやんでりあしやんでりあ降る雪を仰いできみは軽くまはつた(バイパス・ラヴ. 青空依存症)

旧仮名を読むとき、いつもその旧仮名感を残すかどうか悩む。「てふてふ」を、「チョウチョウ」と読むと、「ふ」の良さが損なわれてなんか違う気がするし、「テフテフ」と発音するのもこれでいいのかなという気がする。
この歌も、「シャンデリア」と読むのかなあ、訝しみながら読んでみると、音数が合わない。「シヤンデリア」と読むと、上の句、上五中七はぐるぐるして、下五から合い始め、31音ぴったりになる。
ジャンケンして進む遊びの、「グリコ」とか「チヨコレイト」のあの感じで読んだ。

光景としてうつくしい。雪の中空を仰いでシャンデリアのように軽く回る君。記号で表すと、降る↓、仰いで↑、まはつた↺。上下の動きの中、平面の円の動き。綺麗。
題の「青空依存症」も響いて、凄く詩的でうつくしい光景だと思う。

「恋人のやうな夫婦」と言はれて仲良く笑顔ひきつらせてる(バイパス・ラヴ. ふたりぼつちの明日へ)

「ふたりぼつちの明日へ」、ものすごい連作だった。生めない、生ませられない妻と、夫の夫婦の話。事実を事実として受け入れつつ、それでもやはり引き摺ってしまう悲しさ。どうしようもない中でもふたり強い愛を築いていこう、という内容。
自分の身に引き寄せて読んでいくと胸が苦しくなった。

その中でも一番刺さった、読後暫く動けなかった歌。「恋人のやうな夫婦」、他の状況なら、ラブラブな仲のいいカップル、という意味になるが、ここでは変わる。生むことのない、親になる訳でない、ずっと恋人どまりだというようなものがちくちくと刺さる。そしてそれに対して、傷つきを隠して、二人とも揃って「仲良く」笑顔を装っている。この「仲良く」が一番くるしい。
この歌に登場する、話しかけた人、話しかけられた二人、生むことができない妻、その全てが、何も悪くない。悪意もない。なのに、全部がすこしずつずれて、傷付いてしまう。
悲しいと、一言で言ってしまうことが果たしていいのかどうか分からないが、ぐっと沈んでいくような辛さを感じた。

〈他に好きな歌〉

文庫本閉ぢて回送列車へと変はる予定の車両を降りる

きちきちのリチウム電池すきまなき思想家としてのグーテンベルク

周遊する肺魚のやうにぬらぬらと試験監督きびすを返す

好きよりも嫌ひの方が言ひやすい短い舌を持つて生まれた

⑥佐藤涼子『Midnight Sun』

東日本大震災、もうこんなに日にちが経ったんだ、と不意に思うことがある。僕は愛媛の端で、算数の授業を受けていた。あのとき小学六年生だった。先生が急に抜けて、まずいまずいと顔を青くして、全員下校になった。僕は何が起こったのか気になり、抜け出して、職員室に向かった。するとテレビが映っていて、先生が全員呆然とテレビを見ていた。津波11メートル、という声と、土砂を含む津波の茶色、そしてここと同じような学校が飲み込まれていく映像が見えた。何をやってる、早く帰りなさい、といつも面白いことを言う教頭先生に真顔で怒られた。僕たちは喜んで途中下校で帰った。皆それぞれ、家に帰ってからその深刻さを知ることになった。

東北に知り合いもおらず、親戚もおらず、直接にも間接にも被災を経験していない。思い遣る他なかったが、愛媛はさんざん南海地震が来ると言われていて、なぜこっちよりも先に、と思ったりした。

震災詠に対してどういうスタンスを取ればいいかわからないから、と言ってもう長く経つが、今も全く分からない。大変でしたね、とも、本当に心配していますとも、地震がすべて悪いですから、とも、何も言えない。
どうすればいいんだろうなあ……と悩みつつこの歌集を読んでいって、さらにどうすることも出来なくなった。文字通り後ろから殴られたような感覚になった。
そしてこの歌集の感想を書こうと思った時、最初は、「被災に遭わなかった遠くの地の者として」読もうと思っていた。その立場において読もうと思っていた。でもなんか、安全な、無関係な場所から眺めているような、ひややかさ、残念さを自分に感じた。だからもう、よく分からないまま、読んだし、読みたい。でも多分これも、結局自分のためなのかもしれない。

舗装路の菫を健気と言う人に「そうなんですか」と二回頷く(Ⅰ. グレープフルーツムーン)

解説で江戸雪さんも取り上げていたし、Twitterでも何度か見かけた。僕はこの「そうなんですか」が、こちらに向けられた殺意のように受け取られて、ひやっとして、すぐに謝りたい気持ちになった。誰にだろう。何をだろう……。
また、「健気」というのが、ずん、と来る。元気、とかではない「健気」。菫だって、別に舗装路で咲きたい訳では無いだろう。人間のせいで窮地においやられて、なのに、人間の側が、健気と言ってしまうのか。なんでそんなに平気にいられるんだ、と。

この歌集では何度か、うなずくという行為が出てくる。〈健康で長生きしたいですよねと聞かれて頷く そうでもないが〉、〈そうですか 怒鳴り続ける声があり頷きながら思う白鷺〉、〈「二十年ぶりに会ったら父親が呆けていたんだ」そう、と肯く〉。他に、似た聞く歌として、〈母親がいない理由を聞きながらガラスケースのタルトを選ぶ〉がある。

半ば聞いていない。いや、聞いて一旦頷くが、頭の中、心の中では違うことを考えていたりする。ほかの歌ではそれが顕著である。白鷺やタルトのことを考えている。

この「そうなんですか」の頷きは、一体何を考えているのだろうか。二度目は何を思っていたのか。一度考え、他に何を思い、二度目頷いて何が起こったのだろう。
二度目は、怒りの頷きかもしれないし、さみしい頷きかもしれない。

何事も考えなければならないな、という強い感想を抱いた。そういえば小学生の時、たんぽぽがアスファルトの中咲いているのを、「咲き誇る」と言って、強いひとになろうねという道徳VTRを見せられた。たんぽぽの家族は泣いていたかもしれない。

見た者でなければ詠めない歌もある例えばあの日の絶望の雪(Ⅰ. 記録)

上の句まで読んで、そんなことない、とぼそっと思ったが、下の句を読んで、嗚呼、と思った。
たしかに僕には詠めない。だが、そういうことを言っているのではないだろう。

見なければ詠めない。しかし、ここでは微かに、「詠まされている」と感じた。自分が歌人でなければ、俳人でなければ、作品を作る、作らねばならないなんてことは、無かったのに。
絶望の雪。それを留めてしまう、さが、のようなもの。
この歌のちょうど次の歌に、〈吐瀉物のような記憶をiPhoneのメモに溜め込み「歌」と名づける〉がある。それを歌にすること、してしまうこと、させられること、しなければならないこと。
絶望の雪を見て、それを記憶しながら、「見た者でなければ詠めない歌もある」と断言すること。主体に心を投げ入れたとき、僕は使命感よりも悔しさが感じられた。

もう駄目と悲鳴を上げる決心がようやくついた三年たって(Ⅰ. 記録)

(悲鳴を上げる/決心が)、ではなく、(悲鳴を上げる決心が)、で読んだ。悲鳴を上げることもはばかられて、悲鳴は決心しなければならないほどのものにいつの間にかなっていて、三年たってようやく、ほろほろと、「もう駄目」と崩れてしまう。

僕はおそらくこの感覚を、失恋や親戚の死に合わせて考えようとしているが、多分全然違う。重さも近さも濃度も違う。どれだけ近寄ってもこの「三年」の日々、刻刻は追体験しきれないものだと思う。どうすることも出来ない。
やっと悲鳴を上げられて良かった、という話でも無いし。
「もう駄目」、このたった四文字のせいで何が起こるか、周りの人がどうなるか、自分がどうなるか、全てわかっている主人公。ますます「決心」という言葉がやわらかく光ってくる。

僕は歌集を読むとき、必ず横に紙を置いて、好きな歌、印象的な歌は書き記す。紙に書いて保存する。この歌集も同様に、ペンを持ちながら読んだが、この歌だけ、書けなかった。しばらくの間、ペンをにぎって紙の元に向かうも、この歌がなぜか書けなかった。自分にナイフを刺すように(刺したことがないからこの比喩は適切でないかもしれない)、一文字一文字耐えながら書いた。こんな体験は初めてだった。
この決心までの三年のこと、常に心に留めておきたい。体験した訳では無いが、読者として、忘れてはいけない事だと思った。

ライラック色のペディキュア塗っていて良かった 口に含むだなんて(Ⅱ. 心臓の音)

震災詠がベースに歌集が出来ているが、そうでない歌もある。そちらからも取っておきたい。
佐藤涼子さんは俳人でもあるため、よく季語の存在がちらちらと出現する。これもその一つ。ライラックは北の方でしか見られない、紫からピンクのきれいな、藤のような花。一応晩春の季語。

色の言い方としては珍しい方ではないだろうか。紫の少し明るい色になる。そんなペディキュアを塗っていて良かったというのはどういうことだろう、と思っていたら、「口に含むだなんて」と来て、納得する。この展開の仕方は若干ずるいとも思うが、見事に引っかかって、すぐにメモした。「含む」という言い方が、さらに実感がある。舐めるとか咥えるではなく、「含む」。相手もそのペディキュアの色を尊重しているような、自分を大事にしてくれているような雰囲気が現れている。
「良かった」という素直な言葉も、その二人の関係が見える。

一首に通ずる軽快さが、「ライラック」の花っぽいなと思って、花が決して材料に終わっていないと安心した。

〈他に好きな歌〉

眩暈か余震かもはや誰にも区別はつかない ただ揺れている

どっち向き?あいつが死んだの海だから東じゃねえ?と黙禱をする

観測史上初の台風予報する予報士の喉筋よく動く

チェ・ゲバラのTシャツの裾はためかせつめくさの野をバイクは駆ける

⑦原田彩加『黄色いボート』

凄い、というのがこの歌集の感想になる。思った感情を言葉にする能力、人がどこかでいつか言った言葉をしっかり射抜く能力が、ずば抜けている。ここまで言葉をうまく扱っている人はなかなか見ない。そして、そのために、この作者さんの生活はしあわせを感じるタイミングが多いだろうなと羨む一方、どこかで人よりも多く悲しんでしまうことがあるかもしれない、と想像した。

何より恋の歌が本当に鋭い。

あなたにはその立ち位置でいてほしい回り続けているオルゴール(ぬかるみとして)

「その立ち位置でいてほしい」。これもまた一つの愛の形だと言ってしまえばそうかもしれないが、ズキっと来るものがある。人によっては、上の句はとても幸福な、素敵な言葉に聞こえるかもしれない。僕は何か諦観のようなものを感じて、ずーんとした。僕の手許にあるオルゴールを鳴らしてみる。かなしい。

会わないでいられるならば会わないでいたいと告げて葉桜のまま(ぬかるみとして)

「会わないでいられるなら会わないでいたい」。言われる側の気持ち………………。また「葉桜」というのも。会いたい/会えない歌が多い中、ひときわ素直で風が吹きやまぬ歌。

僕のこともっと大事にしてほしい そう言われているような沈黙(白っぽい街)

どっちから見るか(僕/主体、男性視点/女性視点)で得られる映像は変わるかもしれない、というか変わるだろう。どっちの気持ちもわかる、と言ったら逃げたことになるのだろうか……。主体が少しこの「僕」を嫌がっている、呆れているのが、「そう言われているような」のあたりで受け取られて、この二人はいずれ離れることになるのではないかと思った。
そもそもそんな雰囲気を主体が感じ取れた時点で、もうそれは崩壊しているのではないか、と……。でも、こういう二人、多い気がするな。

純朴であると褒められおとなしく遊びつづけるパンダの気持ち(白っぽい街)

清楚な子が好きだと言われたら、じゃあ私はいつまでも清楚な子でいればいい?ずっと清楚じゃないといけないの?
という言葉をどこかの映像で見かけた気がする。
いい子だねって言われた子供は、いい子だねって言われ続けるようにいい子に''なりにいってしまう''という場合があるが、それも近い。
そういう状況を、パンダまで飛ばしている面白い歌。「パンダの気持ち」の落とし方、もう脱力していて良い。

降り出した雨に歩道が濡れてゆく 君は他のひとばかり褒めるね(アルカリ乾電池)

「君は他のひとばかり褒めるね」。他のひとばかり褒めていてはいけない。いけないというか、私のことも褒めなければならない。いや、別に褒めて欲しいわけでもないし、褒められたところでどうも思わないんだけど。
という流れを想起する。濡れゆく歩道。君は気づいていないだろう。

そう遠くない日わたしの目の前でそんな目をしたひとがいたはず(きりんのようで)

これは少しテイストが違うが、この主体の把握の描写に力がある。全ての言葉が過不足なくぴたりとはまっている。「そう遠くない」、「目の前でそんな目をした」、「ひとがいたはず」。目前にいるその人のことを考えず、連想して昔交際したのだろうか、ほかの人を思い浮かべている。
「そんな目」とはどんな目だろう。形状的なものなのだろうか。細いとかつり目だとか。もしくは、涙していたり、主体を嘲るような目だろうか。
この抽象度と、少し冷めたような主体によって、この光景がみるみると姿を変える。
日→目の文字の面白さも少しあるなと思う。

恋系以外から。

立膝にひたいをのせてしばらくののち方角を失う小舟(花殻)

僕の名がそのまま船の名であるから、よく小舟などは自分だと思って感情移入してしまう。
ほとんどが映像の描写になっている。中でもポイントになるのは「ひたいをのせて」、「しばらく」、「失う」になると考えている。
立膝に額を乗せる。眠っているのだろうか。個人的には悲しいことなどがあって落ち込んでいるのだろうと想像した。

小舟が方角を失ってしまったらもうどうしようもない。どこに行ってしまうか分からない。どこにでも行ってしまうかもしれない。いや、どこにも行けないかもしれない。
その喪失は、「しばらくののち」に起こっている。しばらくの間は小舟も上手くいっていたのだろうか。
僕もめっきり方角を失っている。共感がメインになってしまった。

〈他に好きな歌〉

屈折に騙されぬよう考えてやっぱり否と言い直したり

嫌わずにいてくれたことありがとう首都高速のきれいなループ

二人乗りする自転車のがたがたの道で笑いがとまらなくなる

しあわせな一日だったなみなみとしているものをこぼさず帰る

透けながら眼前に立つ木蓮のいいえ謝る必要はない

⑧笹井宏之『八月のフルート奏者』

ひとさらい、てんとろりとハマって、そういえば持ってなかったなと思って今更買った。やっぱり笹井宏之の歌はいいな!と思ってほのぼの読んだ。

真っすぐに走らせる赤のクレヨンを唯一筆とした日を思い(二〇〇四年)

僕は流れるように、切れがない、一首が一文のように連なっている歌が比較的好きなことが多く、作ることも多い。この歌も、だから、好きだった。
おそらく、唯一筆とした赤のクレヨンを真っすぐに走らせる、というのがスムーズな流れだと思われる。でもそれが転倒して、「真っすぐに走らせる」が最初に来ている。
勢いよく、しゃーっと紙の上を走る赤いクレヨン、それを唯一の筆にしていた日のこと。もう戻れないんだろうか、とか思う。
「日を思い」の終え方がほんとうに素敵。読後も、ずっとクレヨンを持って夢中になっている誰か​──もしかしたらかつての自分、もしかしたらかつての笹井宏之​────が映り続ける。

ひらはらといふ姓を持つ唄ひ手のゐてひらはらと声をだしをり(二〇〇六年)

笹井宏之さんの面白い歌は本当に面白いから好きだ。これもくすりと笑ってしまった。
平原綾香のことだろうか。ひらはらと口に出してみるとたしかに、ひらひらはらはらと葉っぱが空中から舞い降りてくるような、そんなオノマトペに思えてくる。
この歌、ひらはらさんがいて、ひらはらと声にだしているだけの内容だが、癖になるものがある。旧仮名がいきいきとしている。

ゆふばえに染まりつつある自転車の夢見るやうな傾き具合(二〇〇七年)

「傾き具合」の一言で生涯の全景が更新される。
うつくしい。それ以外無い。「夢見るような」の有り余るポエジーが、現実の仔細な発見、「傾き具合」によって真実味を帯びてそこに存在する。そんな気がすると思ってしまう。

以下の二つは晩年に詠まれたもので、人、人生の把握が素晴らしい。この感覚、笹井宏之だ!と思う。別にあったこともないし、存在を知った時から亡くなっていたけれど。でも、歌の向こうで何度かあったことがある。そんな気がして。

葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きるひとときがある(二〇〇八年)

千切れつつ増えゆく雲を眺めをり 人に生まれてからといふもの(二〇〇八年)

〈葉桜を〉は、母が少女になるそのひとときを発見した歌。「ほんのりと」、「ひとときがある」の述べ方に、子としての優しい愛を感じる。他の歌に、〈床にあれど母は母なり咳き込みつつ子の幸せを語りて眠る〉がある。この母親が、〈葉桜を〉の母と同一とすれば、なんて素敵な、と思う。
〈千切れつつ〉は、この純朴な表現が、するすると遠くの口笛のように聞こえてくる。「人に生まれてからといふもの」。自分がなにか忘れていた、それを思い出させてくれる気がする。こうでありたい。

〈他に好きな歌〉

胃の検査やったほうがヨクナイ?と語尾上げる癖で心配されて

らいおんのあくびのやうに盛大にあなたのことを好きだと言はう

外部こそ全てであるといふことの玉葱を剝きつつ泣くものか

ゆつくりと傘をたたみぬ にんげんは雨を忘れてしまふ生き物

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