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読書 Ⅰ ねむらない樹

『短歌ムック ねむらない樹』vol.1(書肆侃侃房)を買った。個人的には''新世代がいま届けたい現代短歌100''を読みたいがために買った。

こういう、〜〜ムックの形式の本は買ったことがなくて、ややドキドキしながら読んだ。なかなか情報量が多くて、これだけで随分と長い時間楽しめるなという感じがした。濃い。読みどころが多い。

気になったところ、好きだった作品などのみに触れて感想を書いていく。

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〈新世代がいま届けたい現代短歌100〉

このコーナーの題名の中の「いま」が、平仮名であるところが、あ、これは短歌ムックなんだなと実感させられるポイントの一つだった。細部にまでこだわっている。

読み進めて、この作者でこれを選ぶのか、という予想外なものもかなりあったが、最初に、選定にあたって「まだあまり知られていない作品や評価の定まっていない作品も、積極的にとりいれ」たとあったので、納得した。
その中でも言及したいものを少し。出典をそのまま引用するため孫引きのようになってしまうがご海容を。

海からの風に吹かれて夏草が初めて「ああつ」と言つたのでした(柳宣宏、『与楽』2003)

選者コメントに''初夏''と書かれていたが、季語的には三夏(夏じゅうずっと)であるし、初夏と限定しなくてもいい気はする。というのは、確かに「初めて」とあるから初夏かなと思うが、実はもうとっくに夏は来ていたのに、夏草自身はそれに気付かず、ふと、急に海からの風が当たることで、悟ったように「ああつ」と気づいた、と取った方が、「初めて」が活きてくると思ったから。
旧仮名、「言つたのでした」のさらっとした描写が、海と海辺の夏草の景色をいっそう魅力的にする。

俺なんかどこが良いのと聞く君はあたしのどこが駄目なんだろう(泡凪伊良佳、穂村弘『短歌ください その二』2014)

そうとう深い歌だと思う。前半から後半への想起は、人によってはかなりの飛躍というか、理解し得ないかもしれない。そしてそういう人が恐らくこの「俺」側の人にあたるのだろう。君から見てもあたしから見ても、色んなことを考えさせられる一首。たった一言のセリフで、ふたりの思うことが瞬間に異なるというのは、なんだか真理を映している気がして、はっとさせられた。

感情が顔に出なくて損をするあるいは得をする こんにちは(相田奈緒、「短歌人」2017年12月号)

選者コメントの通り、「こんにちは」が凄い。こういう、真理的な、AはBである、みたいなことを述べた後で、自然や光景の描写に切り替える歌はパターンとしてよくある。この歌もそのパターンであるとは思うが、「感情が〜得をする」の部分をいっぺんに「こんにちは」だけで背負えるところが凄いし、さらには背負い投げまでされた感覚がある。この「こんにちは」は、哀しくもあり冷笑のようでもあり、勝利のようでもある。

くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる(野口あや子、『くびすじの欠片』2009)

高校生のころ初めて見かけて、衝撃のあまり周りを見渡した覚えがある。いま、衝撃を受けて動揺している自分を周りの誰かが見ていないか、見られていなければいいが、という。
首筋を褒められる主体の映像から、「その日」を境に、首筋が主語になる構造が見事。ひらがなの美しさ、「すじ」「すき」「いわれた」「日から」という音の連なり方の良さ。そして漢字が「日」のみであることからも分かるように、その日を境に全てがめくるめく変わっていくというのも凄い。
「そらしかたをおぼえる」、あざといようで、少しスキップするような、日が差してくるような、美しい変化。完璧な一首だと思う。

たて笛に遠すぎる穴があつたでせう さういふ感じに何かがとほい(木下こう、『体温と雨』2014)

「たて笛の遠すぎる穴」というのがかなり細かい描写で、一気に想像をかきたたせる。「あつたでせう」という呼びかける言葉も、説得力というか、想起させる力が強い。そこまで細かく想像させておいて、「さういふ感じに」で一気に落とされる。急に曖昧になる。
でも、この主体のむずがゆい感じ、あれだよあれ、あのリコーダーのあの遠いところ……みたいな感覚は充分に出ている。この上の句と下の句の落差が、「何かがとほい」という感覚に非常に合っている。一字空きは作者の優しさなのかな、と思う。絶妙、という言葉がぴったりの歌。

朗読をかさねやがては天国の話し言葉に到るのだろう(佐々木朔、「羽根と根」創刊号・2014)

朗読というものへの認識がこの歌によって更新された気がした。天国の話し言葉。知らないけれど、実感を持って接近してくる。「かさね」「やがては」「到るのだろう」など、天国感をキープするよう、言葉の選択も美しくなされている。僕はもう「天国の話し言葉」という言葉に撃ち抜かれてパタリと倒れてしまった。

〈選歌を終えて〉のコーナー、それぞれがどういう感覚で選んだかという点だけでなく、色んな話が出てきていて興味深かった。とくに、SNS時代の結社の部分、

寺井 今はSNSが浸透して、誰かに選ばれるよりもお互いに対等な感じで短歌を作って、共有して、褒めあったり鑑賞しあったりみたいな場ができてきているのかな。

かなり出来てきていると思う。いい傾向だとは思うけれど、そこから一歩、一人だけ抜きん出るということは難しくなっているのかもしれないな、とおもったり……。

寺井 そういう場所って上下関係が発生しにくいですよね。(略)何がいい歌なのかという基準もバラバラになっちゃって、これから評論とかアンソロジーを作るのがめちゃくちゃ大変になってきますよね。(略)別に悪いことではないですが、その世界全体を見渡すのも相当難しい。

まさにこの通りの現状だなと思う。色んなものが色んな基準の中で色んな状態で存在している感じ。まとめようとすると、かなり難しいだろうと思う。今回の100首の並びを見ても、苦悶は伺える。
僕が俳句や短歌を本気でやろうと思い始めたときに、さてどこから本を買えばいいのかと思って調べたら、あまりにいろんな人たちが色んなところで活躍しているから、手のつけようがなかった。『桜前線開架宣言』等参考になりはしたが、やはり掬いきれない人たちが沢山いる。俳句なんか、『現代俳句の海図』と『天の川銀河発電所』くらいではないだろうか、あまりにも拾えてなさすぎる。
俯瞰して眺めることも難しくなってきている、その中でちびちび自分がやっていることを改めて自覚したし、評論とかアンソロジーを組む人は相当ハードだなと思った。

伊舎堂 全部楽しめるやつになりたいですけどね。無理なのかな。
寺井 全部楽しめる軸があるのかな、という。その評価軸ができるのかどうか。

確かに。みんな違ってみんないいからこそ、難しい。

最後、座談会を終えてに、大森静佳さんが述べている、

まずは、自分がいいと思う作品にしっかり「いい」と言う。議論はそこから始まるだろう。そしてときには自分というものが揺さぶられる不安と快感を受け止めたい。

この言葉は胸に留めておきたいと思った。最近僕は、いい作品が埋もれていくのを見る度、また、面白くない作品を偉い人が取り上げる度、「僕が今好きな作品を僕が伝えていかなくちゃ」という気持ちになっている。誰も語らなければ、こんなにもさらりと流されていくのだな、逆に、誰かが語った瞬間、一瞬それは留められるのだな、と気づいた。自分がいいと思う作品にしっかり「いい」と言う。こんな簡単なこと、やらない手はない。責任をもって「いい」と言っていきたいと思った。

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〈作品15首〉①

気になったものだけ。

たった今あなたを焦がしはじめた陽。みていたよちゃんとわれをわすれて(井上法子「ひまわりとおねむり」)

「たった今」「焦がしはじめた」というさり気ない表現が、映像を細かく想起させる。ここまで細かく述べられるというのも、「ちゃんとわれをわすれて」見ていたから。「ちゃんと」は、見る方へかかる気がするが、忘れるほうへかかった方が魅力的であると感じた。ちゃんと自失してあなたをぼーっとじーっと見ていた。句点のぽーんと投げ出すような、息を飲み込むような感覚が映える。連作の題名にきれいに呼応する、陽光の中のひとときの風景。

やめたいな 蜂蜜の瓶ころがしてのたうつ蜂蜜を眺めてる(武田穂佳「その日の地球」)

一言目の「やめたいな」が切実に入ってくる。蜂蜜の瓶をころがすと、なめらかに蜂蜜が瓶の中で移動する。下の方へゆっくりのろりと動く。それを主体は「のたうつ」と受け取った。なんだか全部嫌になってくる気がして、あんまり考えるのも嫌になって、ぼんやりはちみつの瓶を転がす。「眺めてる」という状況も、主体がぼんやりしているのが分かる。
少し、はちみつがあえて「蜂蜜」と書かれていることが気になる。妙に生々しいというか、蜂の蜜!!!という感じがする。平仮名と漢字のバランスもあるかもしれない。個人的には、蜂たちが頑張ってつくった蜜は、こうして瓶の中に入れられ、瓶の中で「のたうつ」しかない、その頑張りが雑に扱われているような感覚が、漢字の「蜂蜜」で強く出ているような気がする。「やめたいな」に繋がる感覚。

同作者の、
だらしない光にぬれるケバブバー大事な毎日を守りたい
自分がステキになっていくのを感じてる レンジで爆発するウインナー
ましになりたい一心でウェットティッシュで全身を拭く

なども好きだった。「大事な毎日を守りたい」のa段の韻、「感じてる」のい抜き言葉の話している感じ、「一心で」「ウェットティッシュで」の助詞の連続など、技巧も感じた。「ケバブバー」「ウインナー」「ウェットティッシュ」などの名詞の斡旋も豪快で良い。

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〈ことば派〉

古澤健「メッセージ」、''言葉が心に届くには時間がかかる。無数の言葉が身体のどこか深いところに積もっていて、それがあるとき水底の砂が巻き上がるようにして浮かび上がってくる。''の部分に強く共感した。本当に忘れた頃になって急に違う顔をしてひょこっと現れることがあるから、言葉はくせになる。

〈忘れがたい歌人・歌書〉

斉藤斎藤「いのちに直面する」。分かりやすく小宮良太郎の第五歌集が説明されて、歌も多く引用されて満足度が高いコーナーだった。自分の感情をありのまま述べたいときに、口語の必要が高まるのかもしれない。

くちなしの実を小鳥がくいちらすことをどうしてときく孫といる庭

小宮良太郎『いのち』のうち「六十」と題された一連の五首、の中の一首を本文中より引き抜いた。
「どうして」という孫の言葉がするりと重く響く。純粋な発想。主体はこれにどう答えたのだろう。答えなかったかもしれない。くちなし、が「口無し」にも見えてくる。自然や人間が見せる一瞬の残酷さを、純粋に疑問に思う孫といる庭。なんだか遠い寂しさを抱く。「くちなし」「小鳥」「くいちらす」「こと」「きく」とkの音が連続するのも、そこはかとなく寂しい。

小宮良太郎という作家を知らなかったため、ぜひぜひ調べようと思った。知りたくなった。

〈越境短歌〉

川口晴美「短歌という隣人」。気軽な文章で読みやすい。俳句をやっている身からすれば、''そのときは、俳句と比べて七七の分だけさらに言いたいことのあるひとが選ぶ詩型だからというざっくりした文脈''の所、いや、俳句の人意外とおしゃべりだけどな、と思ったりした。57577=575+77ではなく、57577=57577で、同様に575=57577-77でも無いというのが僕の印象。

詩ならば何をやっても怒られないのに、短歌ではBL短歌をやると反感が来たらしい、というところ、考えどころだ。俳句でも同じく、二次創作として、BL俳句等々出てきているけれど、そういう反応も同様に見られる。
もっともっと自由になればいいのに、という意見にも同意しつつ、それを認めてしまっていいものか、と動揺する気持ちにも共感する。決してBL等々が好ましくないという話ではなく。
一つの意見として、僕は俳句においては、少しだけ否定的で、その理由が、季語を結構メインに考えているから。季語メインに考えたとき、BL俳句は果たしてどこまで季語が活きているのか、と思ってしまうからである。それが活きているならいいと思うし、季語を意識した上で無季を選択するのであれば、それはそれで良いな、と思う。
じゃあ短歌は季語の必要も無いし、どうなのかな、と考える。一つの作品であることは間違いない。だから僕は全然構わないとは思う。でもなんとなく、このままでいいのかな、という気持ちも抱く。理由も原因も分からないけれど。
でも多分、ものが発明されるとき、これを使って本当にいいのだろうかという気持ちが生じるその感覚と同じだろうから、慣れていくしかないのだろうと思う。ますます表現の幅が広がることを願って。

〈佐藤弓生から歌人への手紙〉

佐藤弓生さんも瀬戸夏子さんも好きな歌人でなんと豪華な企画だ、と思った。人の文通を、その人がいないうちに、抽斗をひいて、こっそり中身を見るような気がしてなんだか悪いことをしているような感覚で読んだ。いや、読ませていただいた。

女性の個体認識が出来ていない男性、インスタントな怒りは快楽消費になってきつつある、などなどの瀬戸さんの意見に頷き考えさせられながら読んだ。

最近友人とも話していることで、男女間の差別偏見のようなものが酷く存在しているということをわかった上で生活していると、本当に嫌になるくらい色んなところに散りばめられていて、その度に気が塞ぐ。そして自分が男性であるということに嫌気がさす。だから来世は絶対に男性に生まれないと決めている。しかし、女性に生まれたところで、差別してくる男性がいるなら変わらない。
なんとも難しいなあという気持ち。なんとも。遭遇したら注意するようにしているけれど、完全に滅するのは不可能ではないかと思うくらい途方もない。

怒りたくなる、しかし怒ったところで「何怒ってんの」と言ってくる人たちもいる。
毎回このあたりで自分はパンクする。性別、思考、社会、全てを放棄してどこかへ旅に出たい、と思う。で、旅に出た先にもそういうものはあるのだろうと思い、吐き気がする。
と、こう書いていて、もうテクストから離れ始めて余計なことを言っていて、また自分が無意識に逃避しようとしているのがわかる。
手強い敵だ。
差別をなくそうと努力をするのが、いつも被差別側であるというこの事実だけで、地球が崩壊してもいいと思う。

とまあ正しい読み方かどうか分からないが、黙っていてはいけないんだな、怒りとの向き合い方も大事だな、という気持ちが心に残った。

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〈作品15首〉②

一戸建てみたいな気持ちで向かうからあなたは庭になって待っていて(石井僚一「海と靴」)

比喩が絶妙。「一戸建てみたいな気持ち」が、理解をぎりぎり超えるか、と思っていたら、「庭になって待っていて」ですとん、と納得する。一戸建てと庭の関係から、私とあなた、向かうと待つ、がきれいに対比されていって、明確に入ってくる。何気ない歌だがものすごいことをしている歌だと思う。

右の手と東方貿易するように左手という謎を動かす
(大滝和子「月のチェス」)

「東方貿易」という言葉のチョイスが光る。右利きだから思うことなのかもしれないが、やはり「左手」は「謎」だ。何だかいつもふわふわしている。その共感から、「謎を動かす」というフレーズがあまりにバシッと決まって、格好良い歌だと思った。言葉が先行しているような感覚はあるが、寧ろそこがいいな、と思う。

新幹線から見えたネコ 新幹線からでもかわいい たいしたもんだ
拍手から羽ばたく鳥の数万羽帰る森 友達が待ってる
(宇都宮敦「ギブン・ソングス」)

〈新幹線〉、一目見てああ好きだと思った。新幹線から見えた光景、よくよく考えると新幹線から見えるってすげえなと思う、けっこう可愛い猫だったなと思う、たいしたもんだと思う。その主体の思考の流れが手に取るように分かること、''そう自然に読者に思わせるほどに自然な作品''を作り上げたこの作者が素晴らしいと思った。「新幹線から」を強調し、一字空きを二度使い、「見えた」→「たいしたもんだ」の少しの時間と主体の納得、一首のうちにかなり考えられている。そして、歌自体は、30秒で作ったんじゃないかくらいの、独り言のような気軽さを帯びている。気取らない、何気ない感覚が、そのままの状態で保存されている、素敵な歌だ。
〈拍手から〉、個人的には「友達が待ってる」への飛躍は少し難解で、どう受け取るのが正解か決めかねているところだが、上の句の発想が凄いと思った。拍手から本当に鳥が羽ばたくのを想像して、これはこれはすごい景色だ、と見上げた。
一人100回拍手するとして、数万ということは、数百人はその場にいるのだろうなと考えられる。大量の拍手、鳴り止まぬ拍手、飛び立つ鳥……。
もしかしたら、これは、一人だけかもしれない。一人でずっと、友達が待つ場所へ、叩き続けているのかもしれない。なんとも不思議な空気感の漂う歌で好きだった。

わたしから離岸してゆくまっさらな柩に集う海鳥の声(鈴木美紀子「花の礫」)

うつくしい幻想。「離岸」「まっさら」「柩」「海鳥」と言葉がひらひらと連なる。空想の世界であるはずなのに、こんなにも明瞭に映像が迫ってくる。最後、「声」で終えられているのも、その世界がいつまでも延長するような気がして、この一首でどこまで行けるのだろうと思った。

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〈ニューウェーブ30年〉

twitterで激しく応答がなされているのを見て、おそらく後世にはこのやりとりが大事なものになるのだろうと思ってひやひやしながら見ていた。
そしてこのシンポジウム自体の内容をぜひとも知りたいと思っていたため、良かった。

まだ短歌を本格的に始めてから僕は一年ちょっとしか経っておらず、まだまだ勉強が追いつかないところで、ニューウェーブとかライトヴァースとかいまいち理解しきれてないままでいるから、ろくなことを言える気がしない。だから感想は書かない。

なんとなく後半を読んでいて、ニューウェーブの表記的喩云々、視覚的に特徴的な作品ならそれに該当するのか……と思った。視覚詩としての試みがなされているのがニューウェーブ的作品なんだな、と思った。それが正しい把握かどうかすら分からないから、もっともっと読んでいかなくちゃならない。
感想は書かないといいつつ書いてしまった。

それにしても、30年ということは、僕が生まれる10年前から起こっているということで、そんな頃から色々やっているのにまだやる余地が残っているなんて、短歌もまだまだ奥が深いなと思う。いや、それを思うと、和歌の時代から大量に作られてきたのに、まだ読めるなんて、凄いジャンルだなと。俳句も短歌もいつまでやれるんだろう。やろうと思えばいつまでもやれるものなのだろうか。

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〈作品15首〉③

てのなかのなずなのようにいちまいのふるえる手紙をひらくのでした(蒼井杏「やわらかいけもの」)

ひらがながまさに「ふるえ」ているような。「ひらくのでした」という独白のような、地の文のような表現も、「手紙」と呼応する。なにより、「なずなのように」が効いている。なずなの花は本当に可愛い。手の中に収められたなずな。握りしめることはなく、やわらかく留めるように手の中にいれる。題名とも響き合う。やわらかさ、ぎりぎりの淵をゆくような危うさを含んだ、ふるえるやわらかさがそこにある。

永久(とことは)に会へぬ彼方(かなた)と此方(こなた)なりさてもたしかなものはとことは(小池純代「きみが眉目(みめ)こそわが眼には佳き」)
※()内はルビ

向こう側とこちら側は会えないということに着目し、それは「永久」に、であることをはっきりと想う。「さても」、「たしかなことはとことは」だと思い直す。永久であることはたしかだということ。この「さても」が切なく聞こえる。歌全体が水が満ちるようにひたひたしていて、茫洋としている。その中で「なり」の断定や「さても」の、自らの意識がきらめく。この''たしかさ''がするりと浸入してくる。

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〈掌編小説〉

陣崎草子「脇とサイレン」。百合、が人物名であると気付かず、最初アザミと百合で???となった。人だった。
2ページで終わる、ほんとうに掌編で、どう終わるのだろうと思ったら、綺麗に終わった。短歌ムックに適しているとも言える、ある一つの主人公の発見により物語が終わる。題名もなるほど、と思う。短歌を読みにこの本を開いたから、小説の気分ではないんだよな、と思いながら読んだら、想像以上に面白かったのでよかった。

〈歌人の一週間〉

中山俊一さん、素敵。日記から出る素敵さ。
堀合昇平さん、「映画のような豪邸の一角がディスコと化し、ミラーボールに照らされながら母達が踊り狂っていた。」の一文に破壊力がありすぎる。
浅羽佐和子さん、「時間をうまく消費できないと何かに責められるような気がするのだ。」 の一文に共感。何か、それはもう一つの自分なのかもしれない。
小坂井大輔さん、 最後の一文でひっくり返る系のミステリに匹敵する程の驚き。これは驚いた。これは本当に驚いた(ほんとうに)。

〈ぽつぽつ ぶつぶつ〉

ちょっとふしぎなコーナー。短いエッセイ的な。日記とも言えないこの微妙な感じ。

高田ほのか「さよならハムスター」、すごく面白かった。独特の、跳ねるようなやさしい文体がすいすいと入ってくる。こういうこと、結構ある。調べない方が、知らない方が、いいのかなあ、でも、知りたくなること、あるしなあ、どうなんだろう、と思う。
初谷むい「拾えなかった海のかけらのこと」、共感する。僕はたいてい、noteに書くことやツイートは大体そうで、あ!と思ったときに喋れなくて、少し時間が経って、そういやさっき!と思って一応手を動かすけれど、いや、面白くない、こうじゃなくてもっと、と思って消す。これをだいたい5回はする。毎回。「あのときは確かに特別だったはずなのだ。」「海での言葉の手触りを思い出す。」、まさにこの感覚。大切なときに、あ、その言葉、この言葉、と思って、追いかけようとした時、既にそれは自分より向こう側にある。思い出すことでしか、それは感じられないのかもしれない。出会えるならもう一度出会いたいけど、そのときに、あのときと同じ表情をしている保証はないから、もう会わなくていいとも思う。
服部真里子「腕から腕時計」、パワーのある題名だが、読んで納得。この掌編(?)最高に面白い。実話かどうか分からないが、完璧だと思う。面白いところを引こうと思ったけれど、そうすると全部引用することになる。この話を読むためだけにこの本を買ってもいいんじゃないかとも思う。「がんばりたかった。」が妙に切ないのがふしぎ。

それぞれ個性があって、短歌よりも如実に個性が現れるなと思った。一発仕掛けたい人もいれば、何気なく書き留めるように書く人もいるし、短歌観を書き記す人もいる。この文量はなかなか丁度いいのではないだろうか。このコーナーばっかり読みたいな、とか思ったりもした。

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〈作品15首〉④

このごろは言い訳などもしなくなりただ「海に行く」と書いて出てくる(岡崎裕美子「真鶴」)

なんとなく不思議な歌。言い訳、という言葉がパッと目に入ることで、なにか疚しいことをするために、海を見てくる、とかなんとか言って出ていくというのを想像したが、これは違う。言い訳をすることなく、ストレートに「海に行く」と書きおいて出る。つまり、言い訳ではなく、目的として、海に行くことがあるということ。連作も以後海に行ったシーンで続く。そこまでフラットに海に行くことが把握されているということに感動する。淡々としている歌が好き。

元気で、と祈りを口にしてしまい会話としてはおかしかったな
泡のように エレベーターは上昇しその間だけ話ができた

(原田彩加「文字もあなたも」)

〈元気で、と〉、まず「元気で、」を祈りと思っている点に主体の優しさが見える。そして「口にしてしまい」、「会話としてはおかしかったな」と自省するあたり、よほどその祈りの言葉を相手に伝えたかったんだな、と思う。結構抽象的な、というか、情報が少ない歌だが、この場面の切り取り方が上手い。会話としておかしいとしても、その気持ちは多分相手に伝わっていると思う。
〈泡のように〉、泡が水面に向かって上がっていくように、短い少しの間だけ、話ができたこと。その時間の短さが、「泡のように」という比喩と、エレベーターという物でありありと伝わってくる。一字空きで、ぽこぽこと上がっていく泡の速さを想起する。話が「できた」という表現から、その短い間でも、話せてよかったと思っていることが伺える。〈観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生/栗木京子〉のような、一瞬を大切に思う感覚が出ている。

僕の気のせいなのかなんなのか、ここの四人にはなんとなく映画や雨の短歌が並んでいる気がする。そういうテーマなのか、と思ったほどだ。

死ななくてよかった登場人物がしぬとき映画にふる小糠雨 佐々木朔
我を待つ一人の夜にモノクロの映画を見ていん東京の夫(つま) 岡崎裕美子
行き先の違うあなたを見送って場面転換するような雨 原田彩加
はじまった気がするまでが長かった映画で外は雨すごかった 岡野大嗣
視聴覚教室で映画を観たのかも 渡り廊下に風ひどくって 岡野大嗣

もしこれが故意で無いのなら、面白いシンクロニシティだな、と思う。

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〈編集委員の目〉

千葉聡「アンソロジーがないと生きていけない」。アンソロジーって、本当に面白い。僕はもともと俳句や短歌にハマる前、(今もそうだけれど)推理小説が好きで。推理小説って結構アンソロジーが多くて、好きな作家が入っているだけですぐに買ったし、そこからハマる作家もあった。麻耶雄嵩が好きで買ったら鳥飼否宇が良くて、我孫子武丸が好きで買ったら有栖川有栖にハマり、柄刀一を読もうと買ったら飛鳥部勝則に惚れ……。
しばし経ち俳句や短歌を見てみると、これが意外と少ない。それぞれが勝手に徒党を組んで同人誌を出したりはしているものの、誰かがまとめる、ということはなかなか起こらない。起こったところで、これが入ってないあれも入れるべきだと怒る人が出てくる。なんだか大変だな、と思う。
そういったことを言う人は、後から入ってくる人のことをあまり考えていないのではないか、と思うことが多々ある。後から入ったとき、勉強しようと思ったり、好きな歌人を探そうと気軽な気持ちで探そうとしたとき、どれだけ見つけづらいことか。ネットで検索しても単発でしか出てこないし、まとまったアンソロジーを探しても、手に取りづらい難しそうなものしかない。

入口を用意してあげること、本当に大切。親が最近僕に影響されて俳句に興味を持ち始めた。しかし、じゃあこれ見て好きな人探してみたらいいよ、と手渡してあげる本がなかなか無い。短歌も同じく。最近になってぽろぽろ出てきたものの。

この界隈に入ってから分かったのは、意外と、「これが好き!」と声を上げる人が、そんなにいないということ。特に上の世代。自分が好きということが何か他の影響を及ぼすことを危惧しているのかもしれないが。
もっともっと好きを言っていかないと、折角いい作品が埋没してしまう。その好きが集まって、アンソロジーが出来て、それ(その界隈に属する人)以外の人々も、「お、良さそうだな」って入ってきてくれるわけで。そこにいる人だけがそこにいる人たち同士で楽しみ合うには、もったいなさ過ぎるのだ。

千葉聡さんのアカウント、フォローさせていただいているが、いつも黒板に書いた俳句や短歌などの作品を掲載している。こういう地道な試みは、本当に大事で、作品も、作者も救うことになる。
別にアンソロジーをどんどん出せ!とは僕は思っていないけれども、好きなものをもっと言っていって、その集大成の一つとして、選りすぐりのアンソロジーという形に結びついていけば、もっと俳句や短歌が盛り上がるんだろうな、と僕は思う。
切に思う。

〈書評〉

梅﨑実奈さん、その他各人の書評でいくつか歌集を買いたくなった。一点気になるのは、結構本が被っていること。人によって引く歌が違うのは興味があるところだが、やや見栄えは良くないかもしれない。別に新しくない本も紹介して欲しい、という気持ちが湧いた。もしくは、全員おなじ本を読むとか。
とはいえ、全員がしっかり書いていて、本当にどれも読みたくなった。お金との相談。

〈読者投稿〉

一番好きだったものだけ。野口あや子選、佳作より

だからどうしたってわけじゃないことを朝が来るまで語りたい人(埼玉県 仲川暁実)

なんとなく、詰めが甘いような感じもするけれど、これはこれ以上どうすることも出来ないだろうなという感じもする。これは一首全体が一つの作品で(そりゃ短歌は全部そうだ)、だからどうしたってわけじゃないことを、朝が来るまで語りたい人がいる。この歌自体が、だからどうしたってって感じだけれど、いや、そんなわけじゃないって言うことを、僕も朝まで語りたい。語ろうとしたところでそれが語りきれるかどうかはわからない。けれど、語りたいと思わせるような魅力がある。
唯一、「朝が来るまで」が具体的で、時間の流れを思わせる。なんだか不安定な、でも遠く水平線を思わせるような、妙に味わい深い雰囲気をもった歌。

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と、ところどころ飛ばしつつ、気になったところや歌だけに注目して好きなように書いた。もちろんここに書いていない所も、ばっちり全部読んだ。(正直にいえば、ニューウェーブ30年のところだけ、まだ細かく読めていない。勉強しながら読みたい)
こう書きながら思ったのは、これは相当に読み応えのある冊子だということ。最初これを新宿の紀伊國屋のレジに持っていったとき、1300円するのにびっくりした。もう少し安い想定だったから。けど今になると納得。1300円以上の価値は余裕で有る。

笹井宏之の歌、かなり好きな作品が多い。知った時には既に亡くなっていた。すごく愛された人だったんだなと思う。こういう人に僕もなりたいなと思った。いや、気軽にこういうことを言っていいのかどうか分からないけれど。僕の中のねむらない樹、水をしっかりやっていきたい。

校生をする係のごとく細かくほぼ全文字読んだわけだが、やっぱり本を作る人は大変だなあと毎度思う。完全に読者だった頃には気づかなかったが、自分が作者(俳句や短歌の)になってから、気づくことが増えた。特にこういう本は、いろんな人から原稿を集め、編集し、レイアウトとか文字の大きさとか色々……本当に……いろんな人の時間と努力が……。

こういう本を作っていただき、読ませていただき、本当にありがとうございますという気持ちです。次号も期待しております。

ということで、とりあえず『ねむらない樹』を本棚に仕舞い、メモしておいた歌集を買うため本屋に行こうと思う。そういえば、仕舞う時に思ったが、この本手触りが凄くいい。また暇な時に触ろう。

読書︰『短歌ムック ねむらない樹』vol.1(書肆侃侃房、二〇一八年八月第一刷)
note見出しの画像︰同書の表紙より。装画/東直子、表紙デザイン/東かほり

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