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読書 | 文フリ①

2018年11月25日に東京であった文フリの収穫より。文フリに行ったのは三度目。色んな方と、初めましてとお久しぶりを交わして非常に楽しかった。
読書の意欲と速度がかなり落ちていて、ゆっくりになるが読んで感想を書いていきたい。

①「大村咲希と暮田真名の岩倉具視」(フリーペーパー/ネプリ、「当たり」特別版)
②「必要性の丘」vol.1.(フリーペーパー)
③三ツ沢歌会「三ツ沢南町」No.1(フリーペーパー)

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①「大村咲希と暮田真名の岩倉具視」(当たり特別版)

「当たり」、こつこつと続くお二人のネプリ。独特の空気感と、安定した作品群、そして静かで丁寧な飛躍が備わった、今一番心待ちにしているネプリ。今回はゲストに武田穂佳さんと當山壮大さん。
12/5・6までなら各コンビニでも印刷できるそうなのでぜひ。(https://twitter.com/mizupistol/status/1067617344740966401?s=19)

各作者より好きなものを。

礼儀正しくおじぎをすれば春の風春の道はちみつとカスタード

田んぼが田んぼが田んぼが続いてその先の光の塊すたみな太郎

(武田穂佳「お祭り」)

〈礼儀正しく〉、ぱっと見て名詞の連続が目に入る。一日が挨拶で始まると心晴れやかな気持ちになるように、おじぎをすることで景色が色鮮やかに感受されていく。それもただのおじぎではなく、「礼儀正し」いおじぎ。ぺこり、というオノマトペも聞こえてきそうだ。
名詞の連続、見た目は詰まっているように見えるものの、声に出してみると心地いい。「春」「風」「はちみつ」「カスタード」のa段の韻がすらすらと先を導く。
同作者に〈だらしない光にぬれるケバブバー大事な毎日を守りたい〉(『ねむらない樹』vol.1より)があるが、この読者を引きつける名詞の軽やかなインパクトは特徴的だなと思う。
「はちみつとカスタード」、果たしてどこにあるのだろう。どこかお洒落なカフェで食べられそうなスイーツの雰囲気。だけど、「春の風春の道」と着実に風景を取り込んでいく順で述べられると、何だか道の上にあるような気がしてくる。主体がシュークリームかクレープか分からないが何かを食べているとか、もしかしたら、道の上に落ちているとか……。

その可能性を考えていると、〈田んぼが田んぼが〉も同様に気になる。「春の風春の道」のように、「田んぼ」がずっと続いていく様を、リフレインを用いてどんどんと述べたあと、「その先の光の塊」と丁寧な視線誘導をして、「すたみな太郎」が突然立ちはだかる。
この歌は田んぼを延長してそのさきに見える「光の塊」、それが本当は「すたみな太郎」だった、というものだろう。それを思うと、もしかしたら、「はちみつとカスタード」というのは、「春の風春の道」と同じことを指しているのかもしれないなと思った。風が道に吹くように、カスタードにはちみつが垂れて……。
どこまでこの名詞の出現を論理的に読めるか、というのをつい考えてしまうが、単語の雰囲気やイメージを信じて自在に奏でていくこの作品たちは、体でスキップするように楽しむのが一番いいのかもしれないなと感じた。
言い忘れていたが、先の「すれば」、後の「続いて」の接続が、作品に奥行きを出して、言葉をなだらかにしているなと感じた。

自選一首〈上から見ないとわからないならハート形なんて意味ないこんな湖〉も素敵だった。意味ないことも無いような気はするけど「こんな湖」のとどめの差し方が良い。ハート形なんて後から人間に足された特徴なのに、湖もドンマイだ。

どうしてか店のカレーが辛いとき母はさきちゃんごめんねと言う

(大村咲希「二十二歳」)

どうしてなのだろう。その理由は、知りたい気もするし、知らないでいいような気もするし、いずれ分かる時が来るような気もする。
母が「さきちゃん」を店に誘ったのなら、誘っておいて辛いカレーをごめんね、という理由が通る。何でそんなので謝るの〜と返答しそう。ただ、ここでは「どうしてか」と言っているから、そう単純な事でもないような気がする。
この「母」に対して複雑さを感じるのはおそらく、「ごめんね」のニュアンスである。カレーが辛いとき、その時偶然(いつもは言わないのに)、ごめんねと言ったのではなく、母はいつもそういう気持ちを抱えていて、カレーを介して言った、というふうに感じたから。やや「ごめんね」に哀しさを想う。
だから多分、僕は頭の中で、カレーが辛いとき(でさえ)母は……と読んでいるのだと思う。
軽い母娘のすれ違いがおもしろい歌と最初は取ったが、読めば読むほど「さきちゃんごめんね」が心に響く。
この時店のカレーが甘かったら……などと余計なことも考えてしまう。

近代化 歓声のなか地下鉄がぼくらのベッドに開通します

(當山壮大「ときどき美男と美女」)

空想に飛ばす形を取っているが、妙に細かくて良い意味で笑ってしまう。地下鉄がベッドに開通する破壊的な状況を「近代化」と一言で言ってのけるあっさりさが良い。「歓声のなか」というのも、現実味がある。
「なか」というとたくさんの歓声のような気がするが、「ぼくら」のベッドに開通したところで、喜ぶのは「ぼくら」くらいだろう。おそらく二人の歓声のみだ。そこが大袈裟だと思って、それが良かった。
もしかすると、逆で、「ぼくら」はたいして喜んではいないものの、周りがやけに「歓声を」あげるなかで地下鉄にぶち抜かれたのかもしれない。どちらにせよ凄い景色だ。

「近代化」「歓声」「地下鉄」「ぼくら」「開通」の、ときどきに挟まれるkの音が勢いを出している。
こんな近代化、望んではいないが、ベッドからほかの駅に行けるのは確かに面白いかもなと思った。僕の家には開通しないでほしい。

トレーを見つからないようにする
クリーニングにかそけきまどろみ
なにを聞いても日だまりと言う

(暮田真名「タイムマシン」)

〈トレーを〉、面白いのはその行為ではなくその動機の不明さ。何故そんなことをしなければいけないのか。
川柳は、明快であるのが特徴だと一般に思われているような気がする。分かりやすいオチが短い言葉にある、というような。
僕は真逆で、川柳は何より怖いと思っている。不明を描くのにぴったりの詩型だと思う。そして暮田さんは、その不明さや、不可解さを前提にとって、不思議な句から面白い句、ホラーな句を作っているように感じる。そしてそのどれに対しても一定の距離を保って冷静にしている主体、ひいては作者を感じ、いいなあといつも思う。
そういえばこの句の主体は何になるのだろう。品を出す側なのか、受け取る側なのか……。僕は食べ物がやったのではないかとも思ったり……。

〈クリーニングに〉 、微睡みとはつねにかそけきものではないのか、という指摘も出来る気はするが、改めて言われるとまどろみが美しく思われる。クリーニング、確かにまどろみを誘い込むような行為だ。いや、ふつうはクリーニングというとさっぱり爽快なイメージなのかもしれない。どうなのだろう。洗濯、個人的に眠たい動作。

〈なにを聞いても〉、見てわかる面白い句。光を当てればいろんな色に光るような、プリズムのよう。読み方によっていろんな見え方がある。
たとえば、相手はロボットで、壊れたように日だまりとしか返答しない。たとえば相手は認知症を迎えた親で、日だまりとばかり呟く。
また、聞く、と言えばここでは相手に尋ねるという意味に受け取るが、文字通り聞くものとして読めば、どんな音や声を自分が聞いても、相手に対して日だまりと自分が言う、とも考えられる。つまり、何を言われても、という。尋ねる方だと「言う」は惚けたような聞こえで、聞く方だと「言う」は主体の意志を感じて、面白い。そしてこの句はその読みのどちらもを想定しているのではないかと思われる点が、技巧を感じて良い。表現をもくるりと包みこむ「日だまり」が愛おしく思えてくる。

〈お悩み相談〉

それぞれのお便りにそれぞれが答えている。優しい方々だなあと返答を見て思う。

大村さんの弟と話さないから話すきっかけが欲しいという相談。皆さんすごく明るく、挨拶や一言を交わして徐々に……という方向に答えている。ただ、個人的には難しいだろうなと思う。兄妹や姉弟というのはなかなか難しいものがある……僕は兄妹なので少しだけ思うところがある。それぞれの形があるとは思うが、やはり距離感が未だにつかめない。話すきっかけなんか無いに等しい。もっと時間が経って、お互いが大きくなったら、何かと話すことも出てくるのかな、とは思う。まだどちらかが思春期/反抗期という中で無理に会話する必要は無いのかな、と思う。

武田さんの地震が怖いという相談。ものすごく共感した。僕は東日本大震災に被災した訳では無いし、同じ怖いと言っても内容は全く異なるのかもしれないが。僕は愛媛出身で、幼い頃(小学一年頃)からずっと、南海地震はいつ来てもおかしくないと教えこまれた。年に何度も避難訓練をして、そのたびに南海地震で死なないようにと言われる。で、小六の時に東日本大震災が来て、僕の町は海沿いだから、南海地震来たらこれはもっと壊滅的だぞ……と思って鬱々とした。
教えられた予想の年からすれば、もう本当にいつ来てもおかしくないはずで、大学のため一人飛び出すとき、親に「南海地震でだけは死なないように」と言っておいた。高いところに家があるとはいえ、海の真横だから即死だ。
大学生で一人で暮らす間、ふと、今南海地震が来られたら、自分の知らないところで親も妹も猫も死んで、僕は新幹線で愛媛に行って、遺体を見に行くことになるんだろうか……いや、新幹線で岡山まで行ってもそこから愛媛まで届くんだろうか……いや、そもそも瀬戸内もまずいかもしれない……などなど思う。
困るし、怖い。
返答の中に地震の恐怖を感じたことがないというのがあって、ああそういうこともあるだろうなと新しい視点を得た。僕の中ではずっと未来に故郷をぶち壊す地震が待っていたから。
嫌なことは考えない、気を紛らわそう!というのも、それでいいのだろうかという気持ちはある。
僕としては、怖すぎて諦めている。
「死ぬのが怖い」と言ったとき、「生きてたらいいことあるよ」と言われたりする。このとき、それは生を価値あるものとして、生のために死を(考えるのを)諦めるというやり方。だけどそうじゃなくて、僕は死のために死を諦めたい。どうせ死ぬんだし、今隕石で、地震で、交通事故で死ぬかもしれない。怖い。だからこそもうどうしようもなくて、そんなことは自分が考えたところで未然に防げるものでもない。(もちろん準備は出来ても。)
地震は怖い。だからもう考えるのは諦めた。別に死んでもいいという気持ちではないし、地震を考えるのをやめたわけでもない。怖いからこその放心。

何か誰かの参考になればいいなと思ったけれど、この感覚は伝わらないかもしれないな、伝わっても共感されないかもしれないなと、自分の書いた文字列を見て思った。少なくとも、なにか怖いという感情に対して、それを楽しいもので均衡を取ろうとする行為は、ただの先延ばしでしかないと考えている。それでいいならそれでいいけど、という感じ。

文量たくさんで読み応えがあった。これからも「当たり」の大当たりを祈願しています。

②「必要性の丘」vol.1

①と同じく暮田真名さん、加えて杉倉葉さんの二人の川柳の紙。詩歌コーナーではなく小説(哲学系の?)のところにあったため、出来るだけ存在感を消してスッと頂いた。

等高線がどこにもないよ
きつねは火器を扱う手つき
おそろいの生没年をひらめかす

(暮田真名「補遺」)

〈等高線が〉、なんだか妙に惹かれた。「どこにもないよ!」なのか、「どこにもないよ?」なのか、「どこにもないよ……」なのかで変わる。嬉しいのか絶望なのか。個人的には嬉しい方で読みたい。
等高線、地図で見たらくっきりとあるが、現実にはそんなものは感じられない。壮大な風景が眼前に広がる様子を想起した。

〈きつねは〉、この句は比較的説明がなされていて想像しやすい。きつねが火器を扱うのか、という意外性が良い。アニメやゲームでは狐と火は付いたイメージではあるが、「火器」と言われると現実感が急につく。「手つき」という終え方も、空想上のきつねの細部に注目させられる。こんなに空想できつねに近寄ったのは初めて。
おそらくこの句を面白くさせている、川柳的なひねりは、「は」にあるだろう。「手つき」の主体はきつねであろうから、「の」が順当なはず。きつねの〜する手つき。この「は」によって、まるできつねが手つきそのものであるような気もしてくるし、省略された動詞を無意識に補完させる。

〈おそろいの〉、天上での会話か。おそろいの生没年、同級生同士で心中でもしたのだろうか。もしくは、それぞれどこかで死んで、天国に行ってみたら、「どこ中?」みたいなテンションで生没年を聞きあって、実は一緒だった、と。「ひらめかす」という生没年の扱い方がふわふわしていて面白い。
世界史をやっていると、人が死んだ年が誰かの生まれた年だったりして、おっと思うことがある。あんな感覚なのだろうなあと思う。おそろいの生没年で同窓会でも開いてみたら面白いかもしれない。行かないけど。

水入らず 街灯 破れた傘 殺人
緑の光に浸る水の図形

(杉倉葉「耳鳴りと遠景」)

タイトルの通り、遠景のようなぼんやりとした景色が並ぶ。ほかの句に、「桟橋」「煙」「港」「船」など、海に纏わる単語が連なり、水気のある(?)空気感が良い。
その中でも、〈水入らず〉の句は、意図的に断絶された景色たちで、他の句に比べて内容への不干渉さが強い。「さよなら」「不安げ」「手遅れ」「心配性」など、他ではかなり心的な単語があるにもかかわらず。
雨の中の殺人、「破れた傘」というのが少し意味ありげ。「水入らず」、他のものを混ぜず内輪だけで集まることを言う言葉で、この景色たちが、他の何かを寄せ付けることなく、淡々と行われていく様子が思い浮かぶ。読者をも寄せ付けまいとするかのようなこの空白、個人的には一番「耳鳴りと遠景」感を感じて好きだった。

〈緑の光に〉、これもまた不思議な句で、説明を聞きたくなる。「緑の光」とは何のことか。光が降り注ぐそれを、心的に緑に感じたのか、本当に緑の光が差したのか。木の葉の間を縫って注ぐ光かもしれない。そこに浸る「水の図形」。またこれも抽象的なワード。心の中で動く芸術のような世界が見えるようで、現実に存在する景色のような気もする。この不思議な世界は少しくせになる。また、「緑」「光」「浸る」「水」とi段の韻が連続する。おそらく他の連作や題ならば、技巧が走っていると思ってしまうかもしれないが、これはうまく納得してしまう。読者にとっては不可視なその世界には、読者の知らない秩序があるというのをその韻に感じ、またその分からない秩序こそ「遠景」であり、それを求めようとする読者の気持ちこそ、「必要性の丘」に立っているようで……。

川柳だけでなく詩も二つそえられてあり(杉倉さん作)、そこから一部好きな部分を引用したい。本来全体で一作品であるから部分的に取ることが意味があるのかどうか分からないけれど。一部でも記憶していたいなと思うほど良かった。
また、本来縦書きで、改行も意図的であろうから、本当は紙面で見てほしい……。


明日の朝、極端に間違った方法で海岸にたくさんのお墓を立てませんか
適当な名前が厳かに並ぶのは馬鹿みたいに素敵だと思う

「極端に」「馬鹿みたいに」の修飾が、詩を現実に引き寄せていて、隣で囁かれているような気持ちになった。

そのはじまりがもはやいつなのかさえもわからず恥ずかしいけれども
うすぐそんな感情さえもなくなってしまうんだと思うこれはたしかなこ
とだほんとうだってうれしそうによろこんでくれたときの記憶だっても
う消えそうでも消そうとしているわけじゃないんだ

詩でよく見かけるこの句読点を打たず連続して延々と羅列する形式。個人的にはかなり好き。指示語ばかりでここだけ抜き出しても何のことだか分からないが、「消そうとしているわけじゃないんだ」には共感というか、大事なことだな、という気持ちを抱いた。言葉や書くということを見つめた詩。

個人的には、杉倉葉さんは論理的で、その論理が十全に現れるこういう詩は、かなり魅力があるなあと思った。暮田さんは比較的に感覚を前提としていて、二人の差がうまく現れていて面白いなあと思った。要チェックなお二人です。

③三ツ沢歌会「三ツ沢南町」No.1

北大短歌会の冊子を買ったら一緒に貰えた。予想より内容が多くて驚いた。No.1ということはこれからも続く予定があるということでしょうか。楽しみです。
特に好きなものだけを。ご容赦ください。

緩急をつけてと言われわたしから躍り出る速い蛇おそい蛇
竹林のような速度でころがって失意って心地いいねはやくて

(杉本茜「他人の速度」)

〈緩急を〉、なんの緩急なのかは分からないが、個人的には性的な行為の最中のことなのかな、と受け取った。それは、他の歌で「肉」「彼女のふくらはぎ」という単語が出てきていることからの類推。全くそういうこととは関係ないことなのかもしれない。
蛇、を、舌の比喩だと思ったが、どうだか分からない。ただ、この蛇が寓意する所の意味はおそらく明るいものではないとは思う。「速い蛇おそい蛇」という「わたし」の把握の少し冷めた感じ、「躍り出る」という表現の勢いが好きだった。前半からは予想のつかない着地の仕方にすごく惹かれた。

〈竹林の〉、これも主体の冷静な諦観が伺える。「失意」が、「はやくて」「心地いい」と思う。本当に心地いいと思っていないが、言葉で相手にひやひやと刺すように言っているように聞こえる。
「竹林のような速度」という表現も面白い。竹が群れて風に吹かれ揺れる速度のことなのだろうか。この比喩は不思議。
内容が静かで、どこか諦観が漂う雰囲気から、言葉がするすると入ってくる。良い作品たちだなと思った。

おやすみなさい 静寂が訪れて心のどこかにある水族館

(吉田伊吹「寝不足」)

「心のどこかにある水族館」、僕もどこかに水族館がある気がして、共感でいいなと思った。
静寂のなかの水族館、一面に広がる真っ青な巨大のガラスが想起される。「おやすみなさい」から導かれる静かで青い世界。
静寂、心の水族館に対して「訪れる」という述べ方が細かくて上手い。静寂も水族館に来場しそうだ。
連作の題「寝不足」もうまく共鳴して、なんとも寝る時に僕も時間をかけてどこかにある水族館を探したい。

低音がきれいに響くイヤホンを買った それだけ母に伝えた

(西村優紀「ニューマニズム」)

びっくりした。この前帰省したとき全く同じことを親に言った。少し高めの青いイヤホン。
ここで大事なのは「それだけ」。それ以外に言うこともあるだろうに、「それだけ」を伝える主人公。照れというか、親子の微妙な感覚がよく表れている。母も多分「うん」とか「そう、良かったね」とか素っ気ない返事をしそうだ。
読めば読むほど、「きれいに響く」がじわじわと広がってくる。良い。

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