推しに”出会う”ということ

「推しは“見つける”のではなく“出会う”ものだ」
という言葉の本当の意味を知らなかったなと

今までいわゆるオタク的な活動(推しがいて、現場にいき、応援する)をしてきたけれど、思えば推しを見つけていたなと感じる今日この頃。
好きなジャンルの、好きな系統の人を応援する というルーティンができあがってしまっていたなと思う。別にそれが悪というわけではないが、今までなんとなく熱くなりきれないと感じていた原因はこの「出会った」オタクたちと比べたときの熱量の差だったのかということに気が付いた。

「タイプじゃないけど好き」という人の熱量

好きなジャンルの好きなタイプの人を好きになるって良くも悪くも予定調和というか。特にサプライズがない。安定しているけれど刺激もない。
大方の事象に対して「うん知ってた」って言えてしまうような、
冷め感とでもいうのでしょうか。
ずっと知ってると段々/どんどん好きって増していくものじゃないですか。
環境からなにから、予定調和の世界での好きの増し方って基本的に等速で。
指数関数的に好きが増すこともないし、逆に炎に水をかけたように急に気持ちが消えることもない。もし「推し」を応援したいという気持ちがなくなってもコンテンツとして好きなジャンルなので趣味までは失わない。
良くも悪くも安定で、安心で、精神的にも楽な限りなく「ファン」に近い「オタク」。

温度感の差は推しを見つけたか、出会ったかの差だと思っていた

あくまで趣味だから、推しに元気をもらうのであって、推しの仕事がうまくいったら喜び調子が悪ければ悲しむような人生が共鳴するような感覚になれないんだと思ってた、けど、そうじゃなかった。

今応援している方は、昔から知っていて、でも当時はファンじゃなくて、久しぶりに観劇しようと思って舞台を見たときに応援するならこの方かなってノリで決めた人。
美人だけど、良くも悪くも特徴がないというか、大外しもしなけりゃ大当たりもない、好きでいるには安定だけれど推しがいはないような方で。
でも今の姿に行き着く前の、赤ちゃんみたいな顔をしていた頃を知ってはいるから愛着はあって。

ただ、その方にとってのいいニュースを一緒に喜べたときに、改めて好きだなと思えたし、温度感が高くなくても「好き」って言えるのかなって思えて。
あなたを好きになってよかったって思わせてくれるから、こういう風に穏やかに好きでいるのも悪くないなと思ったり。

気持ちに熱さが足りなくても、時間で補えたりするのかなと。
瞬間的な熱は低くてもトータルの熱量は蓄積していくのかなと思ったりしました。

対照的に、恋に落ちるように唐突に、全然履修したことのないジャンルの方を推し始めました、最近。

好きになる気は端からなくて、むしろ見たい舞台でダブルキャストだったら避けていたような。ジャンルが違うから興味がないって言っていたような。
「出会う」ってこんな感じなのかなって思ってしまうくらい、テレビで聞いた歌声に魅了されて。夢中になって。
寝ても覚めてもずっとその方のことばっかり考えちゃうような。

これが恋なのだろうかなんて馬鹿げたことを考えたり

今までの推しとは明らかに時間当たりの熱量が違って、いつかこの熱が引いてしまうことを考えると怖いくらい。
落ちた相手への熱量があると、過去の事象にも感情が入るなっていうのは発見でした。昔のまとめを読んでリアルタイムで追っていたかったと思ったことはあれど、感動したり悲しんだりする日が来るなんて思ってもみなかったです。

別にリア恋オタクを始めたわけではなくて、ステージに立つものとしての矜持に惚れ込んでいて、パフォーマンスに魅せられている、だけで。

ただ、あなたがいるから頑張ろう、頑張りたい、と思える。
そんな存在に出会えたことがありがたいなと。

そして「出会った」推しには自分が共感するだけではなくて、その存在が自分自身だったり人生に干渉してくるんだなと。その変化は嫌なものではなくむしろ心地好いのだなと。
そんな風に感じました。

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