ブンゲイファイトクラブ3|一回戦ジャッジ評補遺

この文章はなにか

これはブンゲイファイトクラブ3の本戦一回戦における青山新のジャッジ評の補遺的なものです。

一回戦で僕はグループAにかんして個別の作品評を書いていたので、残りのグループB /C /Dで僕が勝ち抜けを支持した作品について言及します。

グループAの個別評はこちらから読めます。

はじめに

個別評の前に、どういったスタンスで私がジャッジを行なったのかを補足しておきます。単に各作品の感想を読みたい方は飛ばしてもらって構いません。

本戦のジャッジ評では審査基準について以下のように書きました。

原則的に全ての作品の全てのテクストは「書かれたからには意味がある」ものとして読解を試みる。そのため添削的な評価は行わない。これは作品の存在がいかなる影響を世界に及ぼし得るのかを分析することのみを重視するゆえである。

これは要するに「このテーマならこういう書き方のほうが伝わりやすい」といった読みはしないということで、全般的に私の評では否定的言及は最小限に留めています。

私は書かれた実在物としてのテクストと、テーマやアイデアといった概念体の間に明確な関連があるとはあまり信じていません。書かれてしまったテクストは思いもよらない関係性を否応なく孕んでいて、私はそれを不純物や夾雑物だとは思いません——もちろんこれはテクストに限らず、人間がデザインした人工物に普遍的な性質だと思いますが。

逆に言えば、テーマやアイデアは純粋な概念体でありそれ自体で完成しているので、それがテクストによってリプレゼントされるとはどういうことなのか、に興味があります。ほんらい無関係なはずの事象がテクストという人工物によって結び付けられることでなにがあらわれるのか——この結びつきの先をどこまでも辿ってゆくこと。ゆえにこれらの評は明らかに過剰な読解を孕みます。これはある基準においては妄想、牽強付会の誹りを免れえないかもしれません。

ここまででわかるように、本質的にはこの方法ではテクストの序列は決定不可能なのですが、今回はひとまずテクストから広がった関係性の範囲、客観的な強度、それらが世界に対して果たすであろう影響力といった観点で評価を近似しました。不定形で読解可能性に開かれているテクストは関係性の範囲を広げやすいですが、強度では劣ります。一方で単体で世界観が強固に完成されているテクストは縦横無尽に解釈を繋ぐことはできないものの、それ自体が寓話的に作用して既存の世界への読解を加速させてくれるという意味において、強い影響力を帯びます。

すべてのテクストは思いもよらない結びつきに開かれており、それゆえに不完全ですが、私はそうしたいびつなオブジェクトたちを、それぞれの仕方で、観察することに興味があります。こうした関心は歴史の中においては、星座を結んだり、鉱物の中に物語を読み込むといった形で出現してきました。そしてそれは、現在の「批評」と呼ばれるものの一つの源流でもあるはずです。

グループB:坂崎かおる 「5年ランドリー」

構築された作品世界の強度においては随一であり、複数のレイヤーを重ねることで6枚の紙幅を最大限引き伸ばして活用する、というBFCの定石的アプローチの現状における到達点と言って差し支えないだろう。

ここでは物語を読むわたしたちの現実に対して、まずロシアという地理的・文化的な距離のレイヤーがかけられる。次いで歴史という時間的距離のレイヤーがかけられるが、これはさらに5年というキーワードを触媒に、ソ連崩壊を巡る1980年代後半から1990年代初頭にかけてのペレストロイカの時代と、舞台となるノヴォシビルスクの発展の契機となった1928~1932年の第一次五カ年計画の時代へと拡がってゆく。こうした時空間的な拡がりに対して最後にフィクションのレイヤーがかけられることで、物語の下地は整えられる。

同時に、物語の重みを受けたディティールも世界観の構築に寄与している。
たとえば「サイのような洗濯機」がある「チャイカのコインランドリー」の元ネタは、1970年代に出来たというモスクワ初のコインランドリー「チャイカ」であろう。さらに想像を拡げるなら、チャイカとはカモメの意であり、まさしくチェーホフ『かもめ』の原題でもある。革命前夜のロシアでの寄る辺ない孤独とすれ違い、その先の絶望と希望。『かもめ』に描かれたそんな一連の質感を、ソ連崩壊の激動を眺める本作に重ね合わせてみるのも楽しい読みかもしれない。

あるいは「伯母さん」は「わたし」に「赤と白のストライプの布地」でワンピースを仕立てるが、ソ連において赤はいわずもがな共産主義の象徴であり、一方で白は反体制を示す色として位置づけられていたことに注意しておきたい。服をしつらえた「わたし」と鏡の前で並んだ「ヴィーチェニカ」が「民主主義、平和、新しい服、加速」と唱えるように、ここでは布から服を仕立てる行為が再構築=ペレストロイカに重ね合わされている。

(ここからは更に妄想めいた読みになるため括弧内に記す。本作で印象的に登場するもう一つの色にワンピースの水色がある。この色がロシアにおいて同性愛を暗示することを踏まえると「わたし」と「ヴィーチェニカ」の間のどことない距離感が別の質を帯びるように思える。「ヴィーチャとは結婚しないのかい」と尋ねられて返答を濁す「わたし」。「わたし」に対して自分の結婚は「時代だから」だったと語る「伯母さん」。去ってゆく「ヴィーチェニカ」をどこか醒めた態度で見つめている「わたし」。そしていまだ同性愛が嫌悪の対象になるとされるロシア。「見ているだけだ」という本作を象徴する一文はここにおいて、もっと個人的で痛切な感情の吐露のようにも響く。いや、実際のところ水色は一般に「男性の」同性愛の暗示のようなので、やはりこの読みは現実的ではないのだろうが。)

しかし何と言っても本作の白眉は、こうした下地の上であえてコインランドリーを主眼に据えたことにある。コインランドリー。その空間的性質は一言では表現しがたい。最近ではエモさの文脈で語られることがもっとも多いだろうが、 liminal spaceの概念にも近いところがあるように思える。誰にとってもどこかよそよそしく、それでいて/それゆえに感情を投影するイコンたりうる空間としてのコインランドリー。コインランドリーは通り過ぎるための場所でも、居座るための場所でもなく、洗濯のただいっとき、所在無さげに立ち止まる場所としてこの世に顕れる。そこでは回り続ける洗濯物を「見ているだけ」しかできない、だが同時に、見ている間だけはそこに居続けることができる。本作ではそんなコインランドリーへのわれわれの印象を媒質に、限界まで引き離された読者と作品世界が響きあう。

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グループC:首都大学留一  「超娘ルリリン しゃららーんハアトハアト」

強い文体操作を伴う作品もBFCの風物詩だが、本作は特にその試みに多様な企みが託されているように読める。

魔法少女めいた存在「ルリリン」が生活感を醸し出す冒頭はギャップによる笑いを誘うが、「パジャマのボタンを三つ外したところで、襖を閉めた。襖。」といった描写からこの世界をまなざすカメラの存在が急速に匂い立ち、ドキュメンタリー的な質感を帯び始める。その後は「ルリリン」があざとげに遅刻を嘆く場面の延々とした描写や、異様に大きい歩幅、急停止で靴底が焼ける匂いの描写など、カット割りやデフォルメといったアニメ的演出をドキュメンタリーカメラが淡々と捉えているかのような景色が展開される。この時点ですでに、アニメ的演出という解体・再構築を経た世界をもう一度外側から捉え直す、というまなざしの相対化が図られている。

そしてこの企みは中盤、「ルリリン」が振り向く瞬間を無数のショットがスローモーション的・反復的に描き出すという、アニメ演出が最高潮を迎えるシーンにおいて加速を見せる。すなわち「ルリリン」を捉え続けてきたカメラの主である「私」は「振り返っ」た「ルリリン」の「左目」に「捉え」られる。ここに、客体だと思っていたものにまなざしを投げ返されるという、視覚芸術における王道的な批評操作があらわれる。なによりもこの操作は、それがアニメや少女といった典型的な客体としての属性を与えられてきたものたちによる行為であるという点において、補強されてゆく。

後半、まなざされることで現前した「私」は昼夜が高速で流転する明滅世界へと投げ込まれる。この昼夜というモチーフ選択の意図を断定することは難しい。たとえば「私」から見た周りの風景が猛スピードで変化しているということは、他人から見た「私」は極めてゆっくりと動いていることになる。すなわち一方的にまなざされる客体に「私」が変化したことを強調している、と読める。あるいは逆に、「ルリリン」と違って客体としての魅力に乏しい「私」の世界は注視されないがゆえに早送りされているのかもしれない。もう少しメタに見ると、日常系アニメに代表されるように、少女という存在は客体としてあらゆる日常を生かされ続けてきた。「私」はそんな少女たちの時間の総決算をしている、とも読める。全く別の視点としては、原稿用紙6枚の中で言葉を吟味し尽くすことが要求されるBFCにおいて、その一文一文が背景に抱える膨大な作者の時間を追体験しているのだとも言えよう。

いずれにしても、明滅する文章表現が視覚的な刺激をもたらす裏で、テクストの音声的な側面が強調されてゆく点には注意しておきたい。「死ひるぬよるよる!/死ひるぬ昼昼□!」「乖離しひるたのよるか」「マルセラキムグエン鈴木チョウダムディン」といったテクストは、その音韻の妙によって意味よりも速く脳内に滑り込む——目で追う間もなく「私」を通り過ぎてゆく昼夜のように。ここにおいて、対象をまなざし、解読し、意味の中に詰め込むという「読むこと」の一方向的な暴力性(まさに今ぼくがやっていることだ!)から本作のテクストは脱出を果たす。視覚のベクトルを巡る終わりなき応酬からの解放——「超娘ルリリンは超娘。ステキステッキの一振りで大体のことはどうにでもできた。」。

余談:そもそも「□っ□□っ□っ□っ□!■!」といったテクストをわたしたちは流れで「ひっひひっひっひっひる!よる!」と同一のように読んでしまうが、文脈を取り払ってみるとこれはどちらかといえば一般的な伏せ字表現に近い。コンテクストの急流に紛れて視線をかいくぐる異物。ぼくはここで武村知子が「呪音(漢字就是表音文字)」の中で述べた、漢字の「口」を巡る指摘を思い出す。武村は、白川静が『字通』の中で、漢字の「口」は人間の口ではなく「のりとを入れる器」の形に由来する、と述べたことをとりあげ、音を収める器としての口の機能に焦点を当てる。すなわち、口とは声になる前の不定形の呪力を湛えた器であり、根源的な意味での表音文字なのだ、と。本作の□と■はなにものにも読まれえず、それゆえにいかなる音にでもなりうる存在として、ここまで僕が述べてきた、テクストを巡るまなざしと音の物語の結晶のようにも思える。

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グループD:小林かをる 「お節」

強度のあるリアリズムを組み上げていった先に現れる空飛ぶお節のイメージが、物語をわずか半歩ほどシュールリアリズムへと踏み出させる。この構築美と越境に対するバランス感覚が、BFCを跋扈する種々の奇想の中でもひときわ異彩を放つ。

まず、「美禰子」の血族のうんざりするような30年間の凋落のようすを、抑制された筆致によってするすると流し込んでくるテクストの展開は、凶悪な迫力をにじませる。熱を帯びない書き振りそのものが、この世界の動かし難さを読み手に突きつけてくる。

しかし、それと対比されるかのように季節変化が饒舌に描かれるのも、本作の特徴だろう。たとえば「美禰子は四季折々の着物を纏って」物語に現れる。さらに「東京のまだらのように変化する四季」と対応するように、雪深い新潟でのお節の買い出しの情景が、切り詰められた表現が並ぶ作中に贅沢に紙幅を取って描写される。そもそも「お節」自体が季節の風物詩の代表でもある。これらを踏まえると、終盤での「海風が吹いてもお節が空に消えることはない」という描写が、舞い散る桜を<空に知られぬ雪>と喩える風情にも似た質感を帯びて響いた。空ならぬ場所からやってきて、空に還ることもないものたちをあえて雪と呼ぶこと。そこでは変化し続けるものと変化できないものが出会っている。巡り続ける季節の中でいつまでも変われない業深い人々を描く本作にふさわしいモチーフであり、絶えず重苦しさを帯びる本作の中で、空を舞うお節のイメージがどこか開放感を伴って見えることの一因であるように思えた。

加えて言えば、わざわざ月に二度、新潟まで足を運び続ける「私」が捨てられるとわかっていながらお節を送り続けるのは、「美禰子」に対する単なる復讐や嘲りだけではないだろう。過ごした時間に否応なく付随して生起してしまう情、自死を遂げた「理一郎」への哀悼、あるいはそうした諸々に縛られること自体への疲労感。30年の歳月で降り積もった感情たちは、無数の音がホワイトノイズへと収束するようにある瞬間、凪を迎える。そこには祈りと諦念が同居している。そもそもお節とは、歳神への供物としてささげられるものであった。一切手をつけられないまま玄関先に投げ出されるお節は、ある意味では純粋な供物として機能しているとも取れる。空を舞うお節は「私」の諦めの末に現出する風景であると同時に、ここではないどこかへと向けた祈りのようだと、僕は思った。

ところで本作は、昨年のBFC2一回戦に登場した「聡子の帰国」と一部登場人物名——聡子、熊次郎、理一郎——を共有しており、しかも微妙に設定がズラされている。具体的には、これらの登場人物は「聡子の帰国」では語り手である「私=かをる」の実家に属するが、本作では「私」の嫁ぎ先である「篠田昭」の実家に属している。つまり二作を通して見ると「私」と「昭」を挟んだ鏡合わせのような関係性が浮かんでくる。すなわち、これら登場人物は固有名詞であると同時に、イエ的なるものを象徴するペルソナとしても読むことができる。

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* 作品はこちら

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