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清浦奎吾

 行刑回顧録(上) (下) 
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刑政48巻5号~6号 昭和10年5~6月


 清浦奎吾(嘉永3(1850)年―昭和17(1942)年)は内務省・司法省官僚から出発し、長く司法大臣をし、さらに短期ではあるが内閣総理大臣まで務めた。
 
 この文は、引退していた清浦(当時85歳)による回想の口授を記録したものであり(注)、監獄費の国庫支弁など行刑史上の主要な出来事をほぼ網羅してその経緯を語っている。以下のとおり、大きな記憶違いのない回想となっており、行刑の基本的な進展を把握するのに有益と思われる。
   
  回顧の最後は、今日のような文化的な行刑に進むまでには幾多の隠れた人々の功労を見逃すことはできず、私が多少行刑界に力を致すことができたのもそれらの人々の努力に負うところがすこぶる多いと結んでいる。


(参考)掲載ページ・回顧・注釈

(上)48頁下 「明治5年12月に至りまして、始めて監獄則監獄則並に監獄図式なるものが発布せられた」
 正確には明治5年11月29日監獄則並図式太政官布告378号により発布。

(上)49頁上 「(小原重哉)氏は又、当時香港の監獄を模範として、我が国にも同じ様式の監獄を一つ二つ作ってあったかに記憶」
木造ではあるが、明治7年の鍜治橋監倉、明治8年札幌監獄署などは十字型監房棟として建てられた。 

(上)49頁下 「明治14年9月に至りまして、刑法が改正せられ」
  正確には旧刑法は明治13年7月公布、15年1月施行

(上)49頁下  改正刑法の実施に伴って監獄則にも改正が必要になり、私が主任となって改正の起草をし、明治22年の改正(7月公布勅令93号)に至った
明治14年9月の監獄則(太政官達81号 旧刑法と共に15年1月施行)が省かれている。清浦は、この回想でも述べているとおり、明治17年に内務省に入っているので、明治14年の監獄則には関与しておらず、22年の監獄則に関与

(上)49頁下 法制局長官の井上毅(こわし)(天保14(1844)年― 明治28(1895)年 明治21年2月から24年5月まで法制局長官)は殊に人道に重きを寄せる人で、在監人といえども父母の喪に当たっては、論語の「終わりを慎み、遠きを追えば、民の徳厚きに帰せん。」という教訓に則り3日間の休養をさせるべきという主張をした  
 いわゆる遭喪免業(現行は配偶者又は2親等内の血族に拡大「刑事施設及び被収容者の処遇に関する規則」46条1項2号)自体は明治5年の監獄則(ただし施行停止)以来の規定で、22年の改正ではその前の監獄則で1日の免業だったものを3日に拡張しているので、この改正に関して井上の主張があったのかと思われる(論語の出典は第1章「学而第一」の第9 曽子の言)

(上)56頁下 「私は当時貴族院議員として、監獄費国庫支弁に関する一編の意見書を綴って、これを上下両院議員に配布いたしたことがあります。」 この意見書について、大日本監獄協会雑誌36号(4巻4号)明治24年4月42~49頁

(下)41頁上 司法大臣になり、西郷従道内務大臣と協議の上、明治33年1月にやっと監獄費国庫支弁の問題を解決するに至った
正確には、明治32年12月に国庫支弁案が両議院を通過 

(下)42頁上 「第2の問題たる(監獄の)司法省移管の問題が解決を見ましたのは・・・明治36年4月のこと」
正確には、明治36年3月に監獄官制発布、翌4月に監獄則改正(勅令172号 施行は同7月)

(下)43頁上 監獄局の司法省移管については反対論も相当あり、小河滋次郎博士も協会の雑誌に反対意見を発表していたと思う
小河滋次郎の反対論は、小河滋次郎述「監獄は内務省に属すべきや将た司法省に属すべきやの問題に就て」警察監獄学会雑誌3巻14号 明治25年10月8~14頁及び「監獄学」(警察監獄学会明治27年)

(下)44頁上 明治22、3年のころ司獄官の養成のための講習所を開設、典獄と看守長との2組に分けて前後2回の講習を行った
明治23年1月に監獄官練習所を設立 3月開所(監獄官練習所設立ニ関スル清浦警保局長演説筆記大日本監獄協会雑誌号外 明治23年4月参照)、2期の講習を行った

(下)44頁上 在監人が逐年増加し、監獄費が巨額になる対策として、私が司法大臣の折に微罪の不検挙という方針を取り、軽微な犯罪は、警察で厳に将来を戒め叱り置く位の程度に止めて、検挙はしないということにした
明治32年5月、清浦司法大臣は司法部長官会同で起訴便宜主義を採るべき旨を明らかにした訓示を行った。
明治38年5月、清浦の3度目の司法大臣の後任の波多野敬直大臣の時に検事正に対する訓令により司法警察官に微罪処分が認められた

(下)46頁上 行き所のない出獄人には定まった宿所を与え、仕事がなくて困っているものはしかるべき真面目な職業に就かしめて自営自活のできるようにするため出獄人保護協会を設立し、会長の役を務めて事業の発達を図った
 出獄人保護のため監獄協会内に中央保護会ができたのは大正2年(同3年に輔成会として独立)だが、大日本監獄協会は創立当初から出獄人保護事業の奨励を目的に掲げ、免囚保護事業講習会を開催しており、明治33年4月から同42年4月まで監獄協会会長を務めた清浦は推進の総責任者という認識であったと思われる(<雑録>免囚保護事業講習会の経過顛末・清浦総裁の開会の辞。監獄協会雑誌第21巻第10号 明治41年10月43~44頁参照)

(下)46頁下 職業教育という観点から小菅集治監で煉瓦を焼いたりしたが、民間の事業者を圧迫することから漸次廃止になり、なかなか理屈どおりにうまい結果は得られなかったようだ
小菅集治監製造の煉瓦は多くの建築物に用いられたが、明治34年には民間の煉瓦製造会社から民業圧迫との請願が出されるに至ったので,民間の組合による経営の下に受刑者の労働力を提供する態様に切り替えている。刑務作業による民業圧迫は間歇的に再燃する問題であった

(下)44頁上 教誨師は典獄でもこれを尊敬するという地位にあってこそ囚人に対して有力な教誨もできると考え、教誨師の待遇改善にいろいろ骨を折った
明治36年4月、教誨師職務規程を定めるとともに、教誨師は奏任官又は判任官の待遇となった。清浦はこの当時の司法大臣(<雑報>「監獄医教誨師の奏任待遇の道は啓かれたり」(監獄協会雑誌16巻3号 明治36年3月71~72頁参照)
戦前の官吏の制度では、上から親任官(大臣クラス)、勅任官(次官、局長クラス)、奏任官(課長などの幹部クラス)及び判任官(幹部ではない事務官)の順になる(なお、所長(典獄)は奏任官で、ごく一部が勅任待遇)。奏任官以上が高等官と呼ばれた


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