人の種類と繋がりと

この前、渋谷や六本木に行った。滅多に行くことはない。普段は秋葉原や新宿などに行くくらいだ。

街が、人が、全然違った。

前回、世界の見え方が人によって違い、それは芸術などで変わることがある、という話をした。とはいえ、例えば同じ年に、同じ性別で、同じ街に生まれた人でも、世界の見え方は違う。それは結局、その人の遺伝子や家庭環境などの影響があるのだろうと言う気がしている。

そして、例えば渋谷には「人に良く見られたい」と思うタイプの人が多くて、秋葉原には「自分が好きなものを楽しみたい」と思うタイプの人が多い、みたいな特徴があるのだろうという気がする。街によって人も雰囲気も違うのは、そこに何があるかによって、それに惹かれる人が変わるからだろうとは思う。まあそんなことはきっと全員が思っていることだろう。


自分が気になっているのは、それは変えることが出来るのだろうか、ということだ。

人は変われる、という人がいる。人は変わらない、という人がいる。色んな意味で言われる言葉だろうと思うのだけれど、まあ変わる部分もあって変わらない部分もあって、それが今自分が思っているより変えられるか、という挑戦というか何というか。どうなんだろうと思っている。

以前、依存に関する本を読んでいた時の感想でこんな事を書いた。

近けりゃ、合う回数が多けりゃ親友になりやすい、って話がまじでそうな気がして気まずいっていうか、(以下略)

https://note.com/jbn874/n/n0ec77d69e1f5

色んなことを今年は試してみようと思ってはいる。その中の 1つの選択肢として考えていることは「関わる人を増やしてみる、または変えてみる」ということだ。

例えば、何かのオフ会みたいなものに参加してみるとか、何でも良い。その時に「今まで関わったことのないタイプと関わってみる」というのはどうだろうかという考えがあり、しかし不安がとてつもなく大きい。

この前、飲み会に誘われて飲み会に行った。それは、何度かあったことのある人と、何度もあったことある人たちで 10人程度の飲み会だった。その中の 1人の人に「今度こういう飲み会があるけど来る?」と言われて、分からないけど行ってみよう!と思って行ったら想定していた飲み会とはだいぶ異なっており、後で調べてみたら会員制の相席屋みたいなもので、会員ではなくそれにゲスト参加している、みたいな状況だった。六本木だった。

知らない世界に爪先をかすった様な感覚ではあり、その中の全員と連絡先交換しているようなおじさまからは後日「港区飲み毎日やってます!今週のパーティーの予定はこれです!是非参加してください!」みたいな連絡が来た。知らない世界過ぎる。

話を戻すと、場所によって生息している人種が違っているので、普段会わないような人と会うには場所を変えるのが良いんだろう、という当たり前のことに最近改めて気付かされたという話。普段、人とも会わず家でのんびり過ごしてばかりの自分が、同じ人種が多い秋葉原という街でのほほんと暮らしているのだけれど、違う人種と会ってみるのはどうだろうという気に少しだけなった。きっと、しんどくて諦めて家や秋葉原に帰ってくるだけだろうという未来しか見えないのだが。


類は友を呼ぶ、と言う。それはきっと、その方が楽だからだろう。それを無理して、類じゃない誰かに会いに行くことが良いことなのか悪いことなのか。そんなことに挑戦しようかなという思いと不安で、そのもやっとしたものを書いているという訳だ。

それを迷わせているのは上で引用した自分が最近本を読んで思った感想が尾を引いている。その本には「親友か否かは性格の合う合わないはほとんど関係なく、近くて会う頻度が多いかどうかが非常に関係があった」みたいな調査結果があったためだ。なんか性格は合わないけれどずっと一緒に居る、みたいな人たちはきっとそうなんだろうと思う。「どこか根の部分が同じだから」みたいなケースもあるかもしれないけれど、それすら違うケースでもきっとそういうことは沢山ある。自分はオタクだけれど、周りはパンピーばかりで自分がオタクということすら周りの人には言っていないしバレていないはず、みたいなことを話していた youtuber もいた。それはきっと小学生とか中学生とか、あの頃にただ一緒に居て、最低限の居心地の悪さはなかった人たちだろうという気がする。

そして、別の話として「負荷はある程度かけることによって力がついて、その先の人生において負荷がかかることにも大丈夫になる」みたいな本の話も関連してくる。今ここで、自分と合う人としか会わないで楽をしていると、将来そういう人としか会えなくなっていく。話せる人の選択肢が狭まる。それは微妙か?と迷わされる。

とはいえ、例えば「今ここでnoteで書いているようなことを話せる人が欲しい!」としたら、自分もnoteで他の人の記事を読んで、同じようなことを書いている人を見つけたら楽しいのではないか?という気もしなくもないのだが、そういう事を話す経験自体が少ないせいか、元々の性格のせいか、きっと考えて一人で語っている方が楽なんだろうという気がしてしまう。そういう他人の記事を探すのは面倒で、読むことは少ない。ツイート見ていて「この人良いな!」って人をフォローする、みたいなことも全然しない。

以前、佐久間さんが「自分が好きだった作品を検索して、同じような感想をツイートしている人を見つけて、その人がオススメしている作品をチェックしてみて、同じ感想だったらその人を信頼して、その後はその人のオススメは基本チェックする」みたいなことをしていると言っていた。そういうことを自分もしてみたら良いはずなのだ。面倒だけれど。


何にせよきっと、本当に今の自分は今の自分に飽きているのだろう。世界に飽きているのだろう。そして、少し余裕があるのだろう。何かに挑戦する程度の少しの余裕が。

自分が人として変われるか、という事への興味と、そこまで行かずとも自分が関われないと思っていた人と関われるか、という事への興味はある。頑張れるのは今のうちかもしれない、とも思う。今が俺にとっては今後の人生では一番若いのだ。切ない話だ。

めんどいけれど、今度またその気になって余裕があったら行動してみよう。今日はちょっと、面倒なので家でのんびりすることにする。


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