芸術と科学とお笑いの共通点?

この前、youtube でこれを見た。

切り抜き前はこれ。まあ動画は別に観なくても良い。

それでまず自分が知ったことは芸術というものの 1つの意味で、それは「世界の見え方を変えること」という話。芸術によって、世界の見え方が変わるケースがある。どの動画で見たのか忘れたが、同じような話で「絵で雨を表現する時に、日本ではそれを線で表現していた。その絵を知った人は雨を線で認識できるようになる」みたいな話。世界の見え方を表現している。色々な方法で。それは絵だったり、文字だったり、写真だったり動画だったり。

雨が「しとしと」降る、と聞くとそう認識できるようになる。確かに「しとしと」降っているな~という気がしてくる。ただ音にしてしまえば、世界に存在している大抵の音は日本語で直訳的に表現をしたら全てが「ざー」とか「ばん」とか音っぽい何かを無理やり文字に置き換えることしか出来ない。これは、皆にとって「言われて見たら確かにそうだけれど、言われないとそうとは思えなかったもの」を何らかの形で表現して、それに共感する人に影響を与える。


科学もそういう側面があると思う。科学の場合は、世界の何かを数字などで表す。「今日は暑いな~」という何かを「摂氏23°」と表現する仕組みを作り、それによって多くの人の認識が変わる。人によっては、20°でも凄く暑いと思っていて、24°でも普通に暑いくらいだと思っているけれど、数字で表現されるとそれが共通の何かとして認識されて処理されるようになる。


お笑いにも、同じ側面があるんだな~とテレビを観ていて思った。少し前に「ぼくらの時代」でダウ90000の蓮見さんが出ていたので観ていた。

その中で蓮見さんが「お笑いにはあるあるを表現するタイプがある。自分は恋愛のあるあるを表現するのが人より得意かもしれない」みたいなことを話していた。

お笑いには色々種類があって、ただただ非日常のバカみたいな何かを勢いだけで笑わせるパターンもあるが、「あるある」というジャンルがある。ただそれを言葉にするパターンもあるし、コントにするパターンもある。そのあるあるというのも「言われて見たら確かにそうだけれど、言われないとそうとは思えなかったもの」であり、それが今まで誰かから聞いたことが無かったけれど、言われたらめちゃくちゃ共感できる!!という場合に笑いが起きたりする。それが感心になってしまうケースもたまにあるかもしれないが。

そして、一度そう表現されると今後その何かに出会うとそうとしか思えなくなってしまう。人の認識を変える力がある。


これは、ある意味では全てものもに言えるのかもしれないので、○○と○○の共通点だ!みたいな言い方は間違っているのかもしれない。

けれど、なんかふとそう思って書きたくなったのと、自分はそういうことが好きだな~とも思った。知らなかったことをただ知るよりは、知ってたはずの何かが言われて理解が深まる感じとか、あるあるというタイプのお笑いとか。

そして、そういう意味では芸術もお笑いも、どんどん難しくなっていくし、どんどん進化していくんだろうな~と思う。科学もそうだけれど。

世界が変わっていき、その世界と人の認識とのギャップを埋めたりずらしたりしていく。

特にオチとかないんだけれども。でも、「人は自分が認識している通りにしか世界を認識できない」みたいな話って、分かると怖い話と言うか、自分の認識によって世界は変わるからやっぱ頑張るか!という気持ちにもなるというか。

俺にとって世界が「絶対にリプレイしたくないリアル人生ゲーム的なクソゲー」みたいに見えているのは、自分がそう認識してしまっているからであり、その認識は自分でも変えられるかもしれない、みたいな話には結局なる気がする。色んな人が言っている話だが。自分がどうやって幸せだと思えるか、自分にそう納得させられるか、という情報を探し求めて今も色々進んでいる訳で、それは人によって本当にきっとバラバラで。一部を共有したりしつつ、他人とのギャップを知って、楽しみつつ進んで行くしかないんだろうね。という気持ち。

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