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【小杉湯】スキなワケ

 私は、小杉湯がなぜ好きなんだろうか。

 お湯や水に浸かることは、幼い頃から好きだった。毎週末に母と行く銭湯はもちろん好きだった。プールも好き。シュノーケリングなんか5、6時間は平気で海の中でじゃぶじゃぶできる気がする。基本的に銭湯や温泉は、全般的に好き。
 しかしながら、小杉湯は、何か特別に好き。初めて小杉湯に訪れたのは2013年の夏のことである。近くで5泊も泊まっていた激安のゲストハウスのシャワー施設が、あまりにも劣悪だったため近くの銭湯を利用したのが、小杉湯だった。その時の初印象は(もしかすると、もはや塗りつぶされて変形されたものかもしれないが)、まさに「天国」だった。それ以来、私は、日本の昭和感銭湯が好きになり、特に、東京や京都を訪れるときは、泊まっているホテル近くの銭湯に行くことにしている。しかし、いまだに小杉湯に勝る銭湯には出会っていない。勝るというか、比肩できるところを、まだ見つけていない。

小杉湯の「天国感」は、どこから来るのか。

・明るさと清潔さ
 小杉湯の浴場に入ることを想像すると、まず頭に浮かぶことは「明るさ」である。少し異次元の場所に入場する感じがする明るさである。蛍光灯のかんとする明るさが、全体的に白なタイルばりの浴場を照らす。「天国感」の第一要因は、間違いなくこの明るさである。明るさは、施設の多少の年季を隠さずに暴き出す。その暴露により、数年〜数十年に渡って使われてきた、タイル、タイルの目地、蛇口、カラン、鏡、壁が、剥き出しに姿を表す。そこについている手垢も、年月の姿も、手入れの痕跡も、もしかしたら、愛情までも。明るさによって、行き届いている手入れが全身で感じられる。脱衣場の床は古くても今日も光っている。私が、いつもと同じように歓迎される場所が、ここにある。

・日常の共有
 常連というほどでもないので、行くたびに、新しい人々に出会い、その他人たちと小杉湯の湯船で時間と場所を共有する。なぜだろうか。小杉湯では、風呂に浸かることが一種の修行のように感じているからか、その時間を共有している他人に妙な仲間意識、あるいは、シンパシーを感じる。あの人は、いつもの1日をまたもや無事に終えて、ここに浸かっているのだろうか。あの人は、毎週〇曜日にここにきて、いつものルーティン通りの交互浴を実践しているのだろうか。その人は、いつものように決まった場所のカランに座り毎日の疲れと心配を流しているだろうか。凡人の背負う日常の垢は、どれも似たり寄ったり。あの人の姿の中から、私のことを見つける。ああ、今日も癒されに来たのですか、と。

 もちろん、一定の水温、名物のミルク風呂の香りと温度と色、地下水の水風呂のハッとする冷たさ、イベント風呂の充実さ、富士山の絵、天井の開放感、番台の方の親切さ、回復水、休憩室の漫画、企画販売、建物の素敵さ、イベント企画、入り口と下駄箱の光景、近づくとお湯の香り、アメニティの便利さ、高円寺という個性豊かな街という立地…などなど「天国感」の理由はきっと並べきれない。


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