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鈴木其一<朝顔図屛風>


鈴木其一、<朝顔図屛風>(左隻)、19世紀初頭、
メトロポリタン美術館所蔵(出典:Metropolitan museum)(パブリックドメイン)
鈴木其一、<朝顔図屛風>(右隻)、19世紀初頭、
メトロポリタン美術館所蔵(出典:Metropolitan museum)(パブリックドメイン)


朝顔は、日本人にとっては馴染み深い花の一つだろう。小学生の時に、観察日記をつけた思い出がある人は少なくはあるまい。
朝顔と日本人の関わりは、1000年以上昔にまで遡ることができる。『源氏物語』にも、光源氏の従姉妹で、彼の正妻候補に挙げられながらも、毅然とした態度で彼を拒む朝顔斎院という女性が登場する。
毎年7月6~8日に開催される入谷の朝顔まつりも、夏の風物詩として名高い。
そして、朝顔を描いた美術作品としては、江戸琳派の絵師・鈴木其一の〈朝顔図屏風〉が挙げられる。
今回は、江戸琳派のあらましと、朝顔と日本人の関わり、2つの観点から、傑作〈朝顔図屏風〉誕生へと迫ってみたい。

①江戸琳派、誕生

桃山から江戸初期にかけて京で活躍した俵屋宗達。彼に私淑し、多くを吸収しながらも、アレンジを加味して独自の画風を切り開いた尾形光琳。
光琳は1716年に亡くなるが、約100年後、江戸生まれの一人の絵師によって再び見いだされる。
彼の名は、酒井抱一。1761年に江戸の姫路藩邸で、藩主・酒井家の次男として生まれた、れっきとした武士である。
酒井家は文化の理解者が多く、抱一も当主である兄の庇護のもと、絵や俳諧に親しんで育った。
また、酒井家には、尾形光琳が江戸に出てきた時に、一時的ではあるが仕えていたことがあり、その作品が家中に残っていた。幼い抱一も、それらを間近に見て育ったことは想像に難くない。
やがて40歳頃から抱一は、たらし込み技法など、琳派の技法を取り入れ始め、自身は会ったことのない絵師・光琳の画風に、本格的に傾倒していくようになる。
彼は、光琳の平面的で装飾的な画風を受け継ぎつつも、それまではあまり描かれてこなかった種類の草花や虫など新たなモチーフのレパートリーや、写実表現を加味し、洒脱な画風を作り上げていった。


酒井抱一<桜図屛風(左隻)>、1805年頃、
メトロポリタン美術館(出典:Metropolitan Museum)(パブリックドメイン)
酒井抱一<桜図屛風>、1805年頃、
メトロポリタン美術館(出典:Metropolitan Museum)(パブリックドメイン)

京で町人階級の宗達や光琳によって花開いた雅やかな「京琳派」は、武士階級出身の抱一によって江戸という新たな土壌に植え替えられ、「江戸琳派」として新たな花を咲かせたのである。

②朝顔の歴史

朝顔は、約1200年前の奈良時代、遣唐使によって中国からもたらされたとされる。
当時は種子を下剤として利用する薬草として扱われ、「牽牛子」と呼ばれていた。当時の朝顔の花は青一色の小さく丸い形をしていて、12世紀の平家納経にも描きこまれている。
それから長い年月を経た江戸時代、園芸ブームが起こり始めると、朝顔も観賞用植物として人気を集めるようになる。
鉢植えで育てられ、狭い庭や路地でも楽しめる手軽さから、庶民の間にも広がり、浮世絵にも描かれた。

葛飾北斎、<朝顔に雨蛙>、1833~4年、
ブルックリン美術館(出典:Wikipedia)(パブリックドメイン)

俳諧では秋の季語として扱われ、「朝顔につるべ取られてもらひ水」(加賀千代女)などの句が詠まれている。
そして19世紀には、文化・文政期(1804~30)、そして嘉永・安政期(1848~60年)の二度に渡って、朝顔の大ブームが起きた。
これらの時期には品種改良が進み、赤や紫など色のヴァリエーションが増え、中には黄色い花もあったと言われる。
さらには八重咲きなど奇抜な形の「変化朝顔」が数多く生み出され、高値で取引された。残されている図譜を見ると、その多彩さに驚かされると共に、朝顔にかける人々の情熱が伝わってくる。

変化朝顔の例(成田屋留次郎、『三都一朝』より)、(出典:NDL イメージバンク)


③鈴木其一〈朝顔図屏風〉

酒井抱一は、1829年に亡くなるまでに、多くの門人たちを育てたが、その中でも最も名高い存在が、鈴木其一である。
彼は18歳で抱一に弟子入りし、師の身の回りの世話をしながら、絵の勉強をし、時には師の代筆を行うこともあった。
が、師の模倣に留まることはなく、徐々に殻を破り、強烈な色彩対比と明晰な造形による独自の画風によって、抱一に続く、琳派第四の巨匠となっていく。
そんな彼の代表作が、〈朝顔図屏風〉である。

鈴木其一、<朝顔図屛風>(左隻)、19世紀初頭、
メトロポリタン美術館所蔵(出典:Metropolitan museum)(パブリックドメイン)
鈴木其一、<朝顔図屛風>(右隻)、19世紀初頭、
メトロポリタン美術館所蔵(出典:Metropolitan museum)(パブリックドメイン)

六曲一双の画面、そして金地に群青、白、緑の3色で花だけを描くシンプルな構成など、尾形光琳の〈燕子花図屏風〉との共通点が多い。

尾形光琳、<燕子花図屛風(右隻)>、根津美術館(出典:Wikipedia)(パブリックドメイン)


しかし、直線的な〈燕子花〉に対し、〈朝顔〉は花の丸い形や、うねりながら伸びる蔓など曲線を多用している。蔓はまるで龍のようにのたうちながら画面を埋め、画面から無限に溢れだしてきそうな動きと生命感を感じさせる。美しさと恐ろしさが同居している。花の姿をした「怪物」、と呼んでも過言ではあるまい。
京人の光琳が数百年前に栄えた王朝文化を思い起こさせる燕子花のモチーフを屏風いっぱいに描いたのに対し、江戸で生まれ育った其一は、江戸の人々にとって馴染み深い朝顔でもって挑んだ。
それは、光琳と、彼を崇拝していた師・抱一に対する其一の「挑戦」であり、「自己主張」でもあっただろう。
自分はあなた方から多くを学んだが、それに縛られはしない。自分は自分の道を行く。そして、一人の絵師として、あなた方を越えて見せる。
丹念に描きこまれた150輪の花と蕾からは、其一のそんな主張が聞えてくるかのようである。

抱一に至るまで、琳派は直接の師弟関係ではなく、「私淑」という形で継承されてきた。光琳も抱一も、先人の残した作品をヒントに、手探りでその技を研究していくしかなかった。が、その中で自分の「個性」を加味し、新しい表現を切り拓いていった。
彼らに対して其一は、弟子として師・抱一から直接教えを受けることができた。が、同時に師の存在に縛られる立場でもあった。
が、師の死後は、師の影響から徐々に脱却し、無二の個性を打ち立てることに成功する。学ぶということは「まねぶ」、つまり真似することから始まる。が、「真似」を繰り返す中で自分自身の「美意識」や「感性」を意識し、それらを「個性」に昇華させていくことは、易しいことではない。
それを成し遂げられたからこそ、鈴木其一は抱一の実質的な後継者、そして琳派第四の巨匠になったと言えよう。

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