”樹の国”の森を巡って 〜神が棲むと、森はどう変わるのか?〜 その②
自宅の神戸から大阪市街、金剛山地を通り、奈良県の五條から国道168号に入ると、紀伊山地に突入。天辻峠を越えて十津川流域に入ると、いよいよ山深さが増し、今までいた畿内から完全に隔絶された地域に入ったことを実感しました。
車窓から周囲の森を流し見ましたが、原生的な森の気配は感じられません。
谷の両脇に広がっていたのは、モコモコとした樹冠が目立つ照葉樹林。おそらく構成樹種はツブラジイ、アカガシ、ウラジロガシあたりでしょう。
一見原生的な森に見えますが、十津川のような山間部では、本来モミやツガ、ヒノキなどの針葉樹と、照葉樹が混じり合った森(中間温帯林)が成立するはず。伐採されると絶命してしまうモミ・ツガ・ヒノキが確認できず、照葉樹一強の森が広がっている、という樹種組成は、このあたりの森が人の利用圧を受けた二次林であることを意味しています。
また、広大な人工林も目につきました。
紀伊半島は日本最古の林業地帯で、16世紀初頭から人工スギ林の造成が行われていました。そこから搬出されたのが、日本屈指のブランド材「吉野杉」。かの有名な豊臣秀吉は、大阪城や伏見城の築城の際、吉野杉を好んで用いたそうです。江戸時代には、吉野杉材が酒樽に加工され、灘(兵庫県神戸市)で製造された日本酒を船で江戸に輸送する際に重宝されました。当時、吉野では林業用のスギ苗の品種改良まで行われていたそうですから驚きです。
古くから林業で栄えた地域であることと、比較的関西に近いという地理条件が相まって、紀伊山地では戦後大規模な造林が行われました。現在では、紀伊半島の森の約60%が人工林。これと引き換えに、広大な面積の原生林が消えてしまったのです。
二次林と人工林の連続が延々と続く中を走っていると、若干不安になってきました。「神が棲む森」に行きたい、という大層な目的を掲げて出発したはいいものの、国道沿いに広がっている森は殆ど人間に改変されているではないか。むむむ、チョット期待はずれ……。
紀伊山中の集落の歴史は意外に古く、いま車で走っている十津川村には西暦600年代から人が定住しています。村を取り囲む二次林は、この歴史の長さの証拠なのです。
どうやら、紀伊山地全体が”鎮守の森”として保護されていたわけではなく、集落に近い山では普通に森が利用されていたようです。当たり前と言えば当たり前。
森は、地域の歴史の保存容器。それゆえ、旅先で森を観察すると思わぬ形で勘違いが正されたり、新しい発見に出会うことがあります。これもまた、森巡りの魅力のひとつです。
玉置山のスギ巨木林
そんなこんなで到着した最初の目的地が、奈良県十津川村の「玉置山(たまきやま)神社」。標高1076mの玉置山の山頂に位置する神社で、創建は紀元前37年(!)。古くから悪霊退散のご神徳が有名で、古代には皇族の悪魔祓いが行われていました。
現在でも魔除けのご利益があるスピリチュアルスポットとして大人気で、僕が行った日も駐車場は混雑気味でした。
僕が玉置山神社に赴いた理由は、魔除けではなくスギの巨木林。
玉置山神社の境内には、長い間厳格に保護されてきた鎮守の森があり、そこに超ド級サイズのスギの巨木が林立しているのです。いざ行ってみると、確かに中々の強者がいらっしゃる。
上の写真は、本殿横の神代杉。樹齢3000年と伝えられる御神木で、複雑怪奇にぐねった幹や枝からは、この世ならざるものの気配を感じます。先人たちがこの樹に神仏の存在を見たのにも納得。境内には、神代杉以外にも、樹高30〜40m、幹周り7〜8m級の巨木が何本も林立しており、なんとも荘厳な雰囲気。やっぱりここは、俗世から隔絶された聖地なんだなあ、と実感します。
日本に生育する樹種の中で最も樹高が高いスギは、いわば「天界に一番近い樹」。天の神はスギの幹を伝って地上に降りてくる、と信じられてきました。神社の御神木にスギが多いのも、この信仰が理由です。
玉置山のスギ巨木林の起源は、天然林ではなく人間による植樹であるという説が有力です(一部の巨木は、天然である可能性もある、とされている)。
古代、深山の霊山では、しばしば”宗教的な植林”が行われていました。修行の一環として、修験僧がスギの苗木を担いで寺社に向かい、その敷地内に植え付けたのです。
これには、
①神聖な樹種を境内に植栽することで、神の通り道を作る
②スギの苗木がある程度の大きさに育ったら、何本かの木を切り倒し、社の修繕の際に用いる
という、2つの意味合いがありました。玉置山のスギ巨木林も、上記の目的で植栽されたものだと考えられています。
修験僧が植えたスギが、地上と空の最短ルートを幹でなぞり、荘厳な森を作り出すことによって、神を出迎える準備が整う。そして、その森が産出した木材から社が建立され、”神の棲家”が出来上がる…。まさしく”スギの巨木を中心とした信仰サイクル”。こういった宗教的な森林管理システムは、現在日本各地で見られる人工林の林業の起源となりました。
玉置山に限らず、紀伊半島の聖地では、必ずと言っていいほどスギの巨木林を見かけますが、それらの殆どは上記のような宗教人工林。直立した幹が織りなす厳かな森林景観は、先人たちが長年受け継いできた”森と共生した信仰”の結晶なのです。
古座川流域の森
巨大なスギの森は、「神が棲むと、森はどう変わるのか?」という疑問の答えの一つと言えます。
しかし、寺社の敷地内の森はあくまでも人工林。紀伊半島本来の極相植生が残された、原生的な森も見てみたい。そう思って、半島南端に近い和歌山県古座川流域に向かいました。
古座川は、和歌山県田辺市の大塔山に端を発し、熊野灘に注ぎ込む全長約40kmの二級河川。広い紀伊半島の突端に近い(つまり畿内から最も離れた)奥地を流れているため、その流域には今もなお原生的な自然が残っています。友人が古座川町に住んでいたので、流域の森を何箇所か案内してもらいました。
古座川の一番の特徴は、やはり川の水の透明度の高さ。この地特有の緑濃い照葉樹林に抱かれた、ターコイズブルーの淵(流れの水が深くなった場所)の連続。神戸ではまず見られない光景です。関西にもまだ、こんな場所が残っているんだなあ。
深い淵の存在は、川と森の健康指標であると言われています。淵は、様々な水生生物の重要な棲家となるのですが、一度土砂が流れ込むと簡単に消えてしまいます。深い淵に溜まる、透き通った水…という極上の風景は、源流の森が土砂の流出を適切に制御していることの証。
森が川を抱き込み、水中に命のゆりかごを作る…。ダムの建設や拡大造林によって、大半の地域で消えてしまった心地よい営みが、古座川では現在も続いているのです。これは、原生的な森への期待が高まるぞ…。
そうして到着したのが、古座川町平井地区にある北海道大学和歌山研究林。
え、和歌山なのに北海道大学?と思われるかもしれませんが、こちらの森も北大が管理する「森林圏ステーション」のひとつ。北海道には存在しない暖温帯林での研究・教育を行うべく、旧北海道帝国大学が1925年に購入した山林で、広さは約450haに及びます。
「北海道の森は本州とは全く違いますからね。”本州の森を知る”という意味で、この研究林はとても重要なんです。今は、北海道では育たないスギやヒノキの造林に関する実習・研究を行なっています。」
研究林の技術班長である伊藤欣也さんにご案内いただきながら、庁舎と林内フィールドを見学させてもらいました。
平井集落の中にある研究林の庁舎は、1927年に建てられた木造建築で、内装・外観は建設当時のまま殆ど変わっていません。木の温もりが充満した、レトロな趣。昭和初期の日本にタイムスリップした気分になります。
「ここの床は、スダジイの材で出来ています。階段はケヤキ材です。全て、建設の際に近隣の山から伐り出されたものです。約100年前には、このサイズの一枚板が採れるぐらいのスダジイやケヤキの大木が、周りの山に生えていたんですね。でも、現在庁舎周辺の山には、スダジイは全くと言っていいほど生えていない。ツブラジイが主体の二次林が広がっています。じゃあスダジイはどうして消えてしまったのか。これがよく分からないんですよねえ」
……めっちゃ興味深いお話。レトロな木造庁舎の建材1本1本に、約100年前の森の記憶が宿っているのです。
極端な言い方をすれば、木造建築というのは森の遺体を組み立てることで出来上がるもの。地元産の材で建てられた建造物には、それが建てられた当時の植生が、いのちの形を変えて密かに息づいているのです。いわば”森の永久保存”。
建屋の建材に触れることで、その土地の森の歴史を辿る…。海外からベイマツ材を大量輸入して家を建てる現在の日本では、なかなか出来ない体験です。
続いて、林内フィールドへ。北大和歌山研究林は非常に急峻な地形で、敷地の約70%は斜度30度以上の急斜面。それゆえ、森の奥に入る際には専用のトロッコ軌道を利用します。
紀伊山地特有の、空が窄まった深い谷間を、トロッコに揺られながら遡っていきます。さっきまで国道脇を悠々と流れていた古座川(平井川)も、森の奥深くに入ると糸のような細い沢に変わります。軌道が急なガレ場を超えると、沢はとうとう山肌と同化して消えてしまいました。このあたりの森の最深部に到達したのです。
樹木との見えない約束
「ここが、研究林内では一番原生的な森が残っているポイントですね」
伊藤さんにトロッコを停めていただき、周囲の森を観察すると、南方熊楠の「熊野の天地は別世界で、蒙昧といえば蒙昧…」という言葉の意味がわかりました。
紀伊の森の植生には、”秩序”が無いのです。
長く森を歩いていると、森の外観を車の中から流し見するだけで、「この森の内部(林床)には〇〇の樹種が居るんだろうな〜」という予測がつくようになります。そしてその予測は、大体当たる。
例えば、若いコナラやアカマツがひょろひょろと生えた森の林床には、コバノミツバツツジやモチツツジ、サルトリイバラ、ナツハゼが居て、逆に高齢のコナラが生えた森の林床にはヒサカキが密生している…という感じ。
森という巨大構造物は、林床と林冠の連動によって構築されます。〇〇の樹種が作る林冠の下には、□□の樹種が生える…みたいな組み合わせが、あらかじめ決まっているのです。
この”組み合わせ”を覚えておけば、外から林冠の凹凸を眺めるだけで、林床の植生まで推測することが出来ます。森の中に入らずに、林内の景色を頭の中で描けるのですから、中々便利だし面白い。これは、樹木との見えない約束みたいなもので、遷移システムの中で形づくられた絶対的な”秩序”なのです。
数百年単位で揺れ動く植生の秩序を読み取り、それを確認するようにして樹を観察する。これこそ”森とのコミュニケーション”。森歩きの真髄です。
しかし、前述のように紀伊の森には秩序が無い。いや、正確には有るのですが、人間側が理解できない程に複雑なのです。
例えば、北大研究林の最深部の林冠は、冷涼だが雪は少ない地域を好むミズメ(Betula grossa)と、冷涼で湿った土地を好むトチノキ(Aesculus turbinata)によって構成されています。多くの場合、この2種が一緒に生育する森の低木層には、サワフタギやアブラチャンが生える(彼らはミズメやトチノキと気候の嗜好が似ている)のですが、何故か彼らの姿は見当たらず。代わりに、ホソバタブやシキミ、ハイノキ類など、温暖な地域を好む常緑低木が多く見受けられました。
冷温帯(冷涼な本州中部以北)指向の高木の下に、暖温帯(温暖な西日本)指向の低木が生えている…。林冠と林床の植生が連動していない、なんとも奇妙な森です。ちょっと歩いて、他の区画の森を観察してみても、出会える樹種の法則性が見えてきません。温暖な気候を好むイイギリやヤマビワ、ツブラジイが生えているかと思えば、冷涼な気候を好むヒメコマツが生えていたりする。尾根筋に出れば、ヒノキ、コウヤマキ、ツガなどの温帯針葉樹も居る。
どうやらここは、樹木たちの目線で見ると”暖温帯と冷温帯の境目”に当たるようです。だからこそ、気候の嗜好が異なる樹種が一緒に生育できる。しかし、森に生えるそれぞれの樹種の性質が全く異なるため、林冠と林床が別々のメカニズムで胎動してしまう。それゆえ、他の地域の森では当たり前に通用する”植生の秩序”が、ここでは意味を持たなくなっているのです。
また、北大研究林のように、地形が急峻な場所では、そもそも植生の秩序が崩れやすい傾向があります。
岩場や急斜面等の過酷な地形は、樹木が分布を広げる際の前線基地となることがあります。この場合、通常であれば隣り合って生育する筈が無い樹種同士が、同じ場所で森を作ることになります(下の図)。今回だと、ミズメやヒメコマツ(冷温帯)と、ホソバタブ(暖温帯)の同居がこれにあたります。
複雑な地形が、時として樹木の闘争心(?)を煽り、結果的に植生の秩序が乱されてしまう、というわけです。
温暖かつ多雨な気候のおかげで、ただでさえ植物の多様性が高くなっている土地で、山々が連なった複雑な地形が展開されているのです。急峻な山肌は、森を高標高域に連れ込み、冷温帯の植生と暖温帯の植生をごちゃ混ぜにしてしまいます。そして、山の至る所にある切り立った尾根では、樹木たちが陣地の奪い合いを繰り広げる…。
紀伊の森の植生が、他の地域とは違ったルールで動いている理由。それは、巨大な半島が作り出した特殊な気候と、この地特有の山深さに他ならないのです。
実際、紀伊の原生林は日本本土では最も樹種の多様性が高い森林地帯。秋が深まって色味を帯びた落葉広葉樹と、緑濃い枝葉で狭苦しい谷の天井を覆い隠す常緑広葉樹。そして、岩場で風格ある幹を伸ばす針葉樹。
全くタイプが違う樹種グループが、一つの森に集まり、一つの林冠を作る。植生の秩序が崩れた先でのみ成立しうる、特別な森。”蒙昧”という表現以外に、似合う言葉が見つかりません。
神が棲むと、森はどう変わるのか?
翌日、友人と2人で北大研究林よりも奥の山域に入りました。
山肌を一枚捲る度に、目の前に立ちはだかる山の壁が高くなってゆくのを見ると、”紀伊の山の核心部に近づいているんだなあ…”と実感します。
古座川の源頭部に入ると、川はどんどん窄まっていき、それに反比例して左右の崖が高くなります。白波の連なりで出来た1本の線は、急峻な崖の隙間を窮屈そうに流れています。今にも左右の山肌に吸い込まれて消えてしまいそうな、か細い沢の流れ。古座川流域で最も森が深い部分に、到達しつつあるのです。ワクワク感が高まってきた。
沢の源頭の滝を高巻きして尾根に入ると、ヒノキやツガの巨木が林立した原生的な森に突入しました。針葉樹特有の、風格ある樹姿。昨日北大研究林で触れた複雑な植生は、ここでも展開されているようです。多種多様な樹種が枝葉を伸ばし、いくつもの色味が混じり合った林冠。そんな中、ツガやモミ、コウヤマキ、ヒノキの大木が幹で天を突き刺している…。今まで見たことがない森林タイプです。
”蒙昧”を極めた森景色を眺めていると、「神が棲むと、森はどう変わるのか?」という自分の疑問がそもそもの間違いだったことに気がつきました。
僕は今まで、”紀伊山地には神が棲む”という信仰が要因となって、この地の森が護られ、独特な植生が成立したんだ、という仮説に基づいて森を巡っていました。つまりは、「信仰が森に影響を与える」という方向で歴史が流れていると思っていたのです。
しかし実際には、上記の歴史の方向性は全く逆で、「森が信仰を産んだ」のではないか。元から存在する原生林そのものが、信仰の源泉となり、そこから紀伊山地が護られるようになった。森そのものは、自身が生み出した信仰に護られながら、今も昔も変わることなく紀伊の深山に横たわっている。それゆえ、信仰が森をどう変えるのか?という疑問自体がナンセンス。
古来から日本人は、山、樹、滝、川、岩等々、自然界に存在するもの全てに神が宿ると信じてきました。
そう考えると、紀伊山地の深部は、信仰心の起爆剤となり得る自然物で溢れかえっています。
険しい山々の隙間に挟み込まれた、鬱蒼とした原生林。そこでは、樹木の多様性が爆発していて、山一面が複雑な色合いの”緑”に呑み込まれている。そんな中、人間の歴史の長さでは到底追いつけそうも無いほどの年月を溜め込んだ大木が林立している…。
先人たちは、こういった森林景観そのものに神の存在を見出したのでしょう。
深い森を夕暮れ時まで歩いていると、時折尾根を下る踏み跡に出逢います。このみちは、一体どこに続くんだろう。もしかしたら、本当に浄土に繋がっているのでは無いか。そう思わせるほどの深い山と、森。
世界有数の人口密集地帯である京阪神のすぐ隣の、パラレルワールド。紀伊半島の奥深い山並みには、やはり得体の知れない魅力があるのです。
参考文献
・国土交通省(n.d.) ”地域振興 活力と魅力のある地域づくり”
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・伊藤文彦(2019)”文化遺産としての「巡礼路」の保存と継承の研究 : 熊野参詣道伊勢路を事例に”
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・和歌山県文化遺産活用活性化委員会(n.d.)”世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のすべて”
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・矢頭献一(n.d.)”紀伊半島天然林植生の概要”
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・南方熊楠記念館(n.d.)”熊楠の生涯”
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・紀伊半島研究会 奈良女子大学共生科学研究センター(2013)”紀伊半島の自然と文化”
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・高桑進・米澤信道・綱本逸雄・宮本水文(n.d.)”我が国に分布する天然生スギの起源について”
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・岩水豊(1970)”吉野林業の育林技術の成立と展開”
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・鳥居厚志(2017)”紀伊半島の林業”
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・十津川村(n.d.)”十津川の歴史”
history
・北海道大学森林圏ステーション(n.d.)”和歌山研究林”
和歌山研究林
・国立研究開発法人土木研究所 自然共生研究センター(n.d.)”「瀬と淵」そして水辺の植物”
m3_01_01.htm
<謝辞>
この記事の作成にあたり、北海道大学和歌山研究林技術班長の、伊藤欣也さんにご協力をいただきました。ありがとうございました。