野間真さんインタビュー#06~サードシングル『見つめていたい』~
――すみません、また脱線してしまいました。『春の輝き』がセカンドシングルで、その次の『見つめていたい』まで少し間が空いてしまいましたね。
「12月ですよ。3月に『春の輝き』『金のボタン』を出して、次は夏ですねっていう話は当然考えていた、7月ぐらいに。夏休みにキャンペーンをやりましょうかとかね。ところがそこで、センチュリーにもうお金がないという話になって、7月ぐらいに考えていたものが出せませんという話になった。
センチュリー側からこちらに言って来て、どうしましょうかと。プレスやリリースはできるんだけれども、制作にかかる費用やらレコーディングにかかる費用やらっていうのは、もううちで出すことができないと。
それで、『春の輝き』で沢田聖子さんとの接点を作ってくれたセンチュリーレコードの佐藤さんに、いくらぐらいあったら沢田聖子さんで次のシングルを作れますかって聞いたら〇〇万円って言われたんですよ」
――ほう。
「つまり、それはどこまでかというと、曲をつくる、アレンジをする、レコーディングをする、いわゆる完パケっていう用語を使っていた気がしますけど、レコード会社に納品をするところまでで2曲で〇〇万円かかります、という話だったんですね。それで、夏ぐらいにその話を聞いて、〇〇万円か、別に出してもいいなと思って…」
――ほうほう。
「そこで、沢田さんにもう一度、サードシングルで作りましょうよ、という話になって…
今度はそうすると、センチュリーレコードの佐藤さんは一歩引いた立場になって、私が意見をかなり強く押し出して沢田さんに直接発注をすると。そういう段階になったんですね。
それで、2曲をどうしようかということで、B面は『CHIEMI SQUALL』(ちえみスコール)がモチーフの『あおい伝説』――あおいちゃんのコールがしやすい、ライブで使えてアンコールでも歌えるような曲を作ろうということを考えて…
A面に関しては、サビあたま――『見つめていたい』はスローで始まっていますけれど、よくよく聞くとサビあたまなんです。『春の輝き』『金のボタン』はいわゆる普通のA-B-Cの形式のものだったので、C-A-Bで行こうかなと思って、サビあたまの曲、そしてメジャーコード、つまり明るい曲調で、ということで。そのとき言ったのが、たぶんね『おこりんぼの人魚』という仁藤優子のデビュー曲を」
――へえ。
「あの、“パラダーイス…”というフレーズ、それで始まる感じの曲をモチーフにした記憶がありますね」
――なるほど、『おこりんぼの人魚』だったんですか。
「あの仁藤優子のデビュー曲は、当時すごく名曲だったと思うんですね。伊藤美紀と仁藤優子ってあの年のホリプロはすごかったと思います。
あの曲の気持ちいい感じ、高音がしっかりフィーチャーされている感じ、それとサビあたまということで、漠然とですけれども、その曲をコンセプトにして発注したということです。だから、この人なんだろう、マニアだなって思われたんだとは思うんですよ、沢田さんにね(笑)」
――ああ、たしかに(笑)
「『おこりんぼの人魚』と『CHIEMI SQUALL』ですから。その2曲で行ってみましょうという感じで。ただ、それはいま僕は初めて話すことに近いと思うんですよ。初めての話で、あおいちゃんはまったく知らないでしょうし、ファンの人もまったく知らないと思います。だから面白いかもしれないですね」
――面白いです。私も『見つめていたい』を聞いたときは、サビから始まるなと、それもスローでやはり高音で伸ばすところが強く出ているなと。
「彼女の良さというかね。そのとき出来上がってきたときに、沢田さんから言われたことは、もともとの発注の曲の感じは出ていると思うんですけれど、あおいちゃんの伸びやかな声を活かしたいので、あたまのサビ、つまり1回目のCメロはちょっとスローにしました、ということは言われました。それはね、沢田さんのセンスなんですよ」
――なるほど、そうですね。ライブで聴いても、この曲のやはり最初のところはみんな静かに聴き入りますね。
「そうです、そうですね」
――そういう意味でもこの曲は名曲だと思いますね。
「うん、沢田さんのそのセンスがね。まあ発注のイメージは『おこりんぼの人魚』なんですけれど、うまく昇華していただいてね」
――『おこりんぼの人魚』は夏っぽいイメージですが…
「そうなんですよね、季節感はちょっと違うね」
――それを『見つめていたい』の場合はもう少し乙女チックなイメージで…
「そうですね。そういう感じを、そういう雰囲気を出したかったという」
――沢田さんも水野あおいさんの個性をきちっと見た上で作ってもらったんだなという感じがありますね。
「はいはい。そうですね。そういう感じで作っていただいた気がしますね」
――サードシングルは12月16日ですから、ちょっと手前でお誕生日コンサートをされたかと。
「そうそう、そのときはまだ小さい場所でしたけれども、六本木かなんかでやったんだろうな。あのときは、この曲と『あおい伝説』を披露するような場であって、10月から『天使のU・B・U・G』が始まったので、そこでお客さんがちょっと増えた気がしました。それはテレビの効果もあるし、曲を出したということもあるし。そこはね、ツキがあったという感じはしました。テレビの出演というのが出てきたので… まあ、あいかわらずキャンペーンというかね、そういうのはやっていたんですけれど…」
――キャンペーンは曲を出すたびにやっていた?
「新曲を出すたびに何かはやっていた気がするんだけど、都内でやっていたかな、銀座三越屋上とか。その辺はセンチュリーレコードの方がつないでくれたという感じでやっていました」
――新曲のキャンペーンと、その時はまだいろんな地方でイベントとかがあって…
「そうですね、ときどき行っていた感じはありますね。いつ頃から行き始めたんだろうな。たぶんね、有線のイベントというのが関西地区で多くて、有線の大阪支部のUさんという方が、有線を広げると称してデパートとかショッピングセンターとかでイベントを打つことをやってくれて…」
――有線ってよく飲食店や商店街とかで流れているものですよね。それを広げようとしてイベントを打っていた?
「そう、交通費だけは出すから来てください、そこで即売もOKですよって言われて」
――ああ、なるほど。『アイドル冬の時代』の森下純菜さんのインタビューでも、テレビには出られなかったけれど「大阪有線さんにバックアップしてもらっていたので、毎月のように大阪にキャンペーンに行って、ショッピングセンターとかいろいろなところで歌わせてもらいました」と書いてありまして…
「それですね、まさにそれです。担当のUさんという方が頑張っていただいて。だからあおいちゃんの週もあれば、純菜ちゃんの週もあるという感じでやっていた。それはけっこう大きかった、だから大阪にファンが多かったというのは、多少やはり(関係が)ありますよ。
東京はね、なかなかそういうものをできるところが… まあ自分たちでPA代とかを出せば、もういまは無くなってしまいましたが北千住のアメージングスクエアとか、浅草の花やしきでもやったことがあるかな。そういう遊園地系で自分たちで… ライブハウスを借りるようなものの、いわゆる屋外版です。無料でやっていて持ち出しでしたけれど、やっていたことがあります。
ただそういうものをやるぐらいしかなかったですね。あとはライブハウスを借りて、いまの地下アイドルと同じような形でライブは定期的にやっていました」
次回は、またちょっと話が脱線して「地下アイドル」とは、の話になってしまったところを……
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