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プロフィール

簡単にプロフィールを書きます。
高校生活、高校1~2年までは、わりあい普通の人だったと思います。
周囲の同級生でアイドルが好きな人がいて、まあそういう人たちと普通に話をする程度だったかと思います。
高校3年の春に(そう、82年5月です)、中森明菜さんがデビューしました。さあ、ここからが「沼」の始まりです。因みに中森明菜ファンクラブの会員番号はひとケタでした(まったく自慢にもなりません)。

中森明菜はあっという間にスターダムにのし上がり、ちょっと別のアイドルを応援しようと思いました。浪人生の時です。そのちょっと応援しようとしたアイドルのプロダクションの門を叩き、「応援したいんで何か手伝いたいんですが…」と唐突にも申し上げたところ、ファンクラブを手伝ってみる?と言われ、うっかり手伝いはじめてしまいます。そう、うっかりです。
(現在プロダクション関係はかなりきちんと組織化されていますので、こういうかたちで中に入ることはお勧めしません。不審人物として通報されます)
この頃、『よい子の歌謡曲』なども手に取って読み出し、作詞家・松本隆さんの評論家として執筆されていた渡辺秀一さんとお知り合いになります。渡辺さんからは「ファンから事務所を手伝いはじめるなんて、変な人だなあ」と言われてしまいます。

早稲田大学に入学し、早稲田大学芸能音楽研究会に入会します。この時、野間真さんとお知り合いになります。野間さんと言えば、のちにアルテミスプロモーションを設立し、伝説のライブアイドル・水野あおいさん、森下純菜さんを手掛けられた方として有名ですね。
当時「アイドル倶楽部」という同人誌でアイドルのインタビューをしたり評論を書かれていた松井俊夫さん(通称:まつ爺)ー現在、最古参アイドルライターとして知られています―ともお知り合いとなり、さまざま交流が広がりました。
そして、『BOMB!』『MOMOCO』『Sugar』などのアイドル雑誌で、アイドルに取材・インタビューをしたり、コンサートやイベントルポを書いたり、巻頭特集の企画などのお手伝いをする一方、何人かのアイドルのファンクラブの仕事を手掛けたり、プロデュースにかかわったりするようになりました。この頃、よく話をするようになったのが、カメラマンの大山文彦さんです。六本木にあった大山文彦さんの事務所で、大山さんと野間さん、私の3人でよく深夜まで(いや、朝までか)よく語り合いました。86年から90年ごろにかけての話ですね。

私は91年春に就職をし、その後、交流は途絶えてしまうのですが、2000年3月の水野あおいさんのファイナル・ライブ(ラストコンサート)で、野間さん、大山さんとも再開を果たします。
そして、また時がたって20余年後の2023年8月13日、大山さんがプロデュースを手掛け、水野あおいさんが生出演で完全復活したサマー・ライブで、大山さんと再びお会いし、「また、語り合いましょうね」と言って別れたのですが……
大山さんと再び語り合い、大山さんがやってきたこと、考えてきたこと、それらさまざまなことをたくさんお伺いすればよかったな、しておきたかったな、ここで記したかったな……(もうできないけれど)
そういう思いもあって、これから、このnoteを綴っていこうと思っています。


大山文彦さんのことを知りたい方は、ぜひ以下をご覧ください。


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