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卵と壁の現在

ここ数日、なかなか新聞を開けない。
結局はいつもとはずいぶん遅れて読み出すのだが、記事が表面的で部分的に見え、大事なことに目を向けられない気がしてくる。新聞には載らない世界にもっと想像を巡らせるべきではという、形にならない使命感というか焦燥感みたいな意識がある。

2009年2月、村上春樹はエルサレム賞の受賞式でこう述べている。

もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。
そう、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。何が正しくて何が間違っているのか、それは他の誰かが決めなければならないことかもしれないし、恐らくは時間とか歴史といったものが決めるものでしょう。しかし、いかなる理由であれ、壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。

このメタファーの意味は何か?時には非常にシンプルで明瞭です。爆撃機や戦車やロケット、白リン弾が高くて硬い壁です。それらに蹂躙され、焼かれ、撃たれる非武装の市民が卵です。これがこのメタファーの一つの意味です。

しかし、それが全てではありません。もっと深い意味を含んでいます。こう考えてみてください。多かれ少なかれ、我々はみな卵なのです。唯一無二でかけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。それが私の本質であり、皆さんの本質なのです。そして、大なり小なり、我々はみな、誰もが高くて硬い壁に立ち向かっています。その高い壁の名は、システムです。本来なら我々を守るはずのシステムは、時に生命を得て、我々の命を奪い、我々に他人の命を奪わせるのです-冷たく、効率的に、システマティックに。

 https://www.kakiokosi.com/share/culture/89

今、システムとして連想されるのは、感染拡大の防止を理由に個人の行動情報を把握した中国や韓国政府が暴走するという方向だろう(ユヴァル・ノア・ハラリが警告するように)。では日本ではどうだろう。

政府のリーダーシップは残念だ!というほど強くなく、政府機関が締め付けてくるような感覚は少ない。でも「卵」への眼差しは十分だろうか、という気持ち悪さは残る。
今回特に被害を被っている(と報道されている)のは、飲食店をはじめとした自営業側だが、それ以上に目を向けられていない人が存在するはずだ。10万円の支給もおそらく本当に全員に行き届くことはない。だって、日本では「住民登録されていない」「銀行口座がない」人はいない前提になっているのだから。そしておそらく、そのような人が最も経済的に追い詰められているのではないか。

日本版の金融包摂とは何か。仕事に絡めて、少しでもできることを考えたい。

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#壁と卵