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自由はどっちにある?

子どもの頃から今まで生きてきて、ときより浮ぶ「自由はどこにあるの?」という疑問。

子どもの時は、歩くことや走ること、自分で着替える、食べること、学校の勉強やいろんな人との関わり方、覚えること学ぶことがたくさんあって、しんどさというより必死さの方が大きいじゃないかな?
置かれている環境に必死でしがみついて生きようとしている。
例え辛いことがあっても、まわりの空気感によって、その状態が普通だと思いこんでしまう。
何も言わないけど、まわりのみんなも同じだと信じて疑わないから口に出さないこともある。
または、口にしたとしても信じてもらえないかも知れない、信じてもらえなかったから絶望を感じて口を閉ざすことも。

未成年という理由だけで、居る場所、通う学校、振る舞い方、ときには感情まで誰かの支配の下にある。
いろんなことを言われるけど、自分には愛されて、選ぶ権利があることを誰も言ってくれない。ただ我慢をするしかないと洗脳されたその子どもの人生はどうなるのか何て、誰も気にしない。

大人になったらって思うかも知れないけど、その子の性格によって、大人と呼ばれる年齢になったからって、やってこなかった事を簡単にできるようになる訳では無い。そう言い切れるのは、ワタシのまわりに現にそういう人がいて、苦しんでいるのを見ているから。

そんな子どもに比べて、大人と呼ばれる立場になると、いろんな責任を背負うことになる。だけど、自分が居たい場所、居心地の良い環境に身を置くことが可能になる。
大人というだけである種の力が手に入ったと思って、まわりを思い通りに動かそうとする人もいる。そういう人の被害者になるのは子どもということが多い。

なぜそんな考え方の大人になったのか。

歩んできた道の途中で、いろんな大人に傷つけられ、騙されてきたことに気づき、それまでの我慢の感情が爆発をしてしまったのだろう。

辛い経験をいい方に転ぶのかそうでないのかは、一人ひとりが持つ器によって左右される気がします。

子どもの頃の経験が大人の自分に与える影響のデカさを考えると、喜びや恐怖を感じる場面に納得してしまう。

いろんなことを考えてる内に
自由とは何か?

いろんな縛りの中で
無邪気に笑う子ども

いろんな責任を手に入れて
居たい場所を選べる大人

選択できるという点からやっぱり、大人の世界の方が自由なのか?

となれば、社会で一番頑張っているのは、子どもたちということになる。

大人たちの、時には身勝手な決断に振り回され、混乱させられ、寄り添ってもらえず、逆に子どもが大人に合わせるという状態になる。

神様に一番近い存在と言われるだけあって、小さな人間たちが一番偉いな気がしてくる。

子育てしてても日々思う。

親のワタシに振り回されてるのに、いつも無償の愛情をくれる我が子たちってすごいなぁと。

感心するだけで終わるのは良くないと思ってるから、定期的に感謝を伝えるようにしてます。そして、今はいろんな我慢あるけど、将来的にもっと自由になれること、責任と権利についても話します。

いくら親子でも、感じ方とモノの見方が違って当たり前で、今からそれぞれで考えて、自分の感情を大切にして決断する。付いてくる結果を受け止めて前に進むような人間になって欲しい。

何より直感を大切にして欲しい。

違和感というサインを
無視しないで欲しい。

理不尽な大人の社会の中でも
命にしがみついて、生き抜いて欲しい。

そうすれば、大事なメッセージを自分のまわりに伝えられるし、誰かを助けられるかも知れない。

こんなことを考えながら終われる今日、ワタシにとってある意味、平和な1日だったってことなのかも知れない。


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