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ジロリンタン備忘録220207

中田耕治さんってどんな人?

 やあ、なんとか2月になったね。2月というのは平年でも不景気な月なのに、この疫病のせいでさらに不景気になりやがる。
 ちょっとマシなのは、リー・チャイルド著『キリング・フロアー』(講談社文庫、新装版あり)原作の「ジャック・リーチャー/正義のアウトロー」の映像版が2月4日からアマゾン・プァイムで始まったことぐらいかな。
 そのほか、2月4日にはある芥川賞作家が54歳がタクシーの中で心肺停止でなくなっている。優等生風の文芸作家が多い中で、最近珍しい無頼派だったので、作品を1作も読んでいないものの、将来を期待していたが、最近亡くなった年上の嫌味な芥川賞作家を尊敬していたらしいから、別に惜しいとは思わなくなったよ。

 亡くなって惜しい作家は、2月4日に死亡が公表された非芥川賞作家の中田耕治さんのほうだ。実際に亡くなった日は、昨年2021年11月26日。千葉市の病院で心不全で死亡。94歳だった。
 おれにとっては、大先輩の翻訳家だった。1984年9月29日に「マルタの鷹協会」のゲストとして来ていただいたことは、『「マルタの鷹協会」日本支部会報250号記念合本』を参考にして書いている。会報の1984年10月号にそのときのことが報告されている。へええ、あれからもう40年弱経ったんだなあ。
 あのときは、小鷹信光さんが中田さんをゲストに呼ぼうと言い出したのか、おれが中田さんをゲストにお招きしたいと言ったのか忘れたが、どちらにせよ、小鷹さんに頼んで、中田さんにゲストとして来ていただいたはずだ……と思う。
 そのときは、大先輩の翻訳家だとしか思っていなかった。例会より前に、ほかのファンクラブ会報『地下室』で大沢在昌氏が中田さんの短編集のことを書いていたので(と、ここで中田さんの短編集リストを参照するが、タイトルをすっかり忘れているぞ! 『夜は燃え昼は…』だったかな?)、大沢氏に電話して、六本木の喫茶店で貸していただいたことを思い出した(もちろん、読後、大沢さんには返したはずだよ)。とにかく、中田さんをゲストに招いた例会では、小鷹さんが中田さんのインタヴューワーになってもらっている。
 おれの印象では、小鷹さんは両中田さん(<マンハント>編集長だった中田雅久さんと<マンハント>翻訳スタッフの中田耕治さん)をかなり尊敬しているようだった。それが、この度、中田耕治さんの経歴を調べて、わかるような気がした。
 中田耕治さんは明治大学英文科在学中から(1946年より)『近代文学』に文学評論を投稿して、注目された。そして、「俳優座」養成所の講師として、戯曲論、演劇論を抗議し、「青年座」で演出を始めた。
 1958年から日本版<マンハント>とその後継誌<ハードボイルド・ミステリィ・マガジン>の翻訳スタッフに加わった。それで、小鷹さんとは親しいのだろう。
 これまでは、wikiからの孫引きだが、例会でのお話では、戦後に早川書房が<ポケット・ミステリ>を出すに当たって、当時アメリカで大人気だったミッキー・スピレインを出すように早川の編集者にアドヴァイスした翻訳者の一人だったという。(信じられないだろうが、当時の翻訳者は偉かったのだ!)
 早川書房や創元推理文庫からは戦後の新しいハードボイルド小説を紹介しながら、自分でもハードボイルド小説を書く一方で、劇団「鷹の会」を結成して、作品を演出した。そのほか、明治大学日本文学科の講師、女子美術大学教授、翻訳学校バベルの講師を務めたり、ほかにも、純文学、不純文学、ミステリー文学、演劇、翻訳、創作などの面でいろいろと活躍されたわけだ。
 翻訳以外のことで、中田さんの活躍を知ったのは、彼の訃報を聞いてから、死亡記事を次号の「マルタの鷹フライヤー」に書かないといけないなあと思いながら、中田さんの経歴を調べ始めてからのことなのだ。圧倒された。小鷹さんが尊敬するのも無理はない。
 例会の記録を再読していると、もう40年前に蔵書(ほとんど洋書)4千冊を千葉市の図書館に寄贈したとおっしゃっている。(うらやましい! 今では引き取ってくれる図書館なんかないよ)
 昨年の11月に亡くなって、公表されたのが2月4日だった。日本のメディアにはほかの有名な作家の訃報がバカに大々的に取り上げられているが、中田さんの訃報を遅まきながら、そこにぶつけるというのが皮肉である。
 あなたなら、どっちを大きく取り上げるべきだと思う?
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