生きるために理由はいらない?ふざけんな。

遍く命に光あれ 生きる為に理由はいらないぜ
うなだれても踏み留まった そこをスタートラインと呼ぶんだ

菅田将暉 「ロングホープ・フィリア」

ヒロアカのED曲として有名な「ロングホープ・フィリア」にて、作詞の秋田ひろむさんはこのような歌詞を綴った。

生きる為に理由はいらないぜ

…どうしても、僕にはこの歌詞に納得がいかない。
僕自身がその「生きる理由」に苦しんでいるからだ。

生きるのは苦しい

僕にとって、”生きる”とは、=苦しさである。

自分で言うと自作自演みたいでなんだか滑稽に見えるかもしれないが、僕の認知は世間一般に比べて確実に歪んでいる。
世間の99%は気づきもしないだろう、ほんの小さなしぐさを見て「もしかしたら俺って嫌われてるのかな」と被害妄想を抱く。
ちょっと体調が悪いだけかもしれないのに、険しい顔をしていると「俺何か気に障ること言ったかな…」と加害妄想を抱く。
普通であれば「それは杞憂だ」と一笑に付すような小さなことでうだうだと悩み、一人で勝手に苦しむ。

一人で苦しんでいるだけならばまだいい。
僕はそれを現実世界に持ち込んでしまう。
自分が傷つきたくないし、傷つけたくもないから人間関係を疎ましく思う。
ちょっとした遊びの誘いにもなんのかのと理由をつけて結局拒み、気づけば少し疎遠になったり、グループの中で少し浮いたりして。

その微妙な関係値を感じ取ってまた被害妄想を繰り広げ、一人の世界に逃げ込む…
負の連鎖。

そして、認知の歪みというのは、基本的に自分からはどうすることもできない。
だって本気でそう思ってるんだもん。
なんだったら、今まさにそうしているように、”認知が歪んでいる”という事実に気づいてさらに病む。
「変なことしてないかな」「おかしなこと言ってないかな」と周りに対してさらに過敏になったりもするのだ。

常に自分を疑うし、常に他人を疑っている。
こんな人生のどこが楽しいというのか。

僕は生きることに対して常に絶望していて、ずっとずっと死にたいと思っているのだ。

「死ねない」から

死にたい。

そう、僕は死にたい。
でも死ねない。
怖い。
死のうとすらできない。
僕にはその度胸と勇気がない。
認知の歪みを抱え、孤独の淵にうずくまっているのはひたすらに苦しいけれど、死ぬのはそれ以上に怖いのだ。

死にたいけど死ねない。
じゃあ、どうするか。

そう。

「生きる理由」が必要だ。

死にたい、苦しいとすら思わないほど、いや、苦しくてもなお「生きねばならない」と思えるだけの理由が必要なのだ。

いまだに見つかってはいないし、見つからないまま苦しみ続けて死ぬのかもしれないけれど、僕はその「理由」に恋い焦がれているし、何かの間違いで認知の歪みが解消しない限りは、「理由」探しを諦めることはできない。

手放しに「生きる為に理由はいらないぜ」などと呑気にのたまうことなど、僕には不可能だった。

いいこと

最近、たまに”いいこと”をするようになった。
落ちてるゴミを近くのごみ箱まで捨てに行ったり、電車で子連れのお母さんを見かけたらさりげなく席を立ったり。
バイトでも、妊婦さんやおばあさんが重いカゴを持ってきたらレジからサッカー台まで運んで行ったりしている。
やったりやらなかったりするし、あくまで自己満足でしかない。

なぜそんなことをするのか?

理由は単純で、「自分がここにいる、生きている意義があった」と実感したいから。
誰かのためになることで、「自分がいなかったら、目の前の人が困ったり、不快な思いをしていたかもしれない(自分が死んでいなかったから回避できた)」と、ほんの少しの間だけ自分を認めることができるから。

崇高な志など初めからない。
ワンフォーオール、自己犠牲の精神などあいにく持ち合わせていない。
僕は病的に自分本位な人間だ。
自分のために善行を積んでいる。

だけれど、「ありがとう」と言われると、やっぱり少しうれしい。

「いいこと」が、僕の生きる理由になる世界線もありえるのかもしれない。


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